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合気道の合気って何? 力の概念なのか技術なのか理念なのか



今回も合気道の用語です。


合気道は文字通りに解釈すると、合気の道。しかしその「合気」とはいったい何でしょうか。


剣道なら、剣の道。真剣を使わなくても、竹刀を剣に見立てて稽古する武道であることに間違いないでしょう。

柔道は、やわらの道。やわらの辞書的な定義は「力で相手に対抗せず、相手の力を利用して逆に相手を倒す武術」です。現実的に柔道の試合で力で対抗しないかというと、そんなことはないでしょうが、日本の武術的な区別の中で、武器術と体術に分け、その体術を剛か柔で区別すると、当身があろうがなかろうが、柔(やわら)とは日本の柔術系全般を指すと考えて間違いないでしょう。


合気道も剛か柔で分ければ、柔道と同じ柔術のカテゴリー。でも柔道のように、辞書的に「合気」を調べても定義はありません。

なぜ? どうして?



ちなみにWikipediaの「合気」は、「検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください」とあります。Wikipediaとしては、信頼性が担保されていない、という判断ですね。


先に書いた「やわら」の辞書的な定義は「力で相手に対抗せず、相手の力を利用して逆に相手を倒す武術」ですが、合気道として一般的に使われている説明と同じではないでしょうか。

産業区分のように使うなら、大分類は「武術・武道」。「やわら」は中分類。合気道は「小分類」になるかと思います。合気道の説明が、それより上位カテゴリーの説明とまんま同じでは変ですよね。




「合気」とは「気を合わせる」こと?


そんなことを言っていると、「合気」とは文字通り「気を合わせる」ことだろ。そんなことも分からないのかという声が飛んできそうです。

もちろんこのフレーズは、今まで何度も聞きました。



しかし「気を合わせる」とは、どういうことでしょうか?



植芝吉祥丸先生は、著書『合気道教範』の中で、こうお書きになっています。

合気道の創始者植芝盛平翁によれば、合気道の「合気」という意味は気に合するということで、天地の気、わかりやすくいえば自然の姿と1つになることであるという。

「自然の姿と1つになる」は、私は稽古の中で「なにより重力を味方につけること」だと言っていますが、解釈は千差万別かもしれません。


しかし今の時代に「気を合わせる」を観念的にだけ言っていると、『合気道には固い稽古と流れの稽古がある? その分岐点を辿ってみると』で書いた「争わざるの理」と同様に、受も「気を合わせる」、逆らわないという正反対の意味に転換しているかもしれません。動きを覚えるための段階の方法のままで、有段者になってもやっていることになりかねません。

合気を会得した受は、少し触れられただけで飛んでいくとなっていれば、「気を合わせる」は主客が転倒しています。



この用語シリーズは直弟子の先生方の言葉から探るが核ですので、「気を合わせる」を探してみましたが、塩田剛三先生の言葉ぐらいしか見つかりませんでした。


塩田剛三先生は著書『合気道修行』で、こうお書きになっています。

合気道のスピードについて書かれている文章です。


まず、自分自身の動きが早いということ。これは当然の話で、動くのが遅いよりは早いほうがいいにきまっています。
しかし、ただ自分の動きだけがやみくもに早ければいいというのではありません。自分においては、早いとか遅いとかの観念はなくならなければいけない。早くしようとか遅くしようとかの考えはないわけです。
相手の気(機)に合わせるということで、早くもなり、遅くもなります。相手の気と合わなければ意味がないのです。
植芝先生の言う、”自然なる動き"というのは、そこにあります。合気道おけるスピードというのは、あくまでも相手との相対的な関係において問われるのです。

ここではわざわざ気にカッコを付けて、(機)と書かれていることからも、スピードもですが、タイミングを重視したニュアンスで「合わせる」に言及されたのだ思います。

その後もどんどん話が展開しているので、タイミングは「相手の気と合わせる」重要なひとつの要素だとおっしゃっているのだと思います。




鬼一法眼の来者則迎 去者即送 対者則和


その『合気道修行』のサブタイトルにお使いになるほど、塩田剛三先生が好まれていたフレーズ「対すれば相和す」も、「気を合わせる」ことと同じことかと思います。

この「対すれば相和す」は、鬼一法眼の言葉です。鬼一法眼は源義経に兵法を教えた僧侶だと言われています。


塩田剛三合気道修行背・サブタイトル対すれば相和す


鬼一法眼の兵法書の中に「来者則迎 去者即送 対者則和(来る者は迎え、去る者は送り、対する者は和す)五五十 二八十 一九十」と書かれていて、この「五五十 二八十 一九十」が合気の真髄だと、塩田剛三先生がおっしゃっていたという話があります。

相手が五の力でくれば、五の力で受ける。相手が一の力でくれば、九の力で受ける。合わせて十の力になるように調和すること。


そういう意味だと私は解釈していて、正面打ち四方投げ(一)の崩しの説明などでは、同じような言い方で説明をします。

しかしこれは塩田剛三先生独自の考え方ではありません。


そして鬼一法眼が、源義経に兵法を教えていたのなら、それは合気道のものだけではないはずです。



書籍にはなくても検索してみると、鬼一法眼の「来者則迎 去者即送 対者則和五五十 二八十 一九十」を植芝盛平先生は好んで使われていたという話がいくつも出てきます。


植芝守高(盛平先生の別名)監修の「合気柔術秘伝目録」の書き出しは、このフレーズだという話までありました。


もっとも、本題ではないので軽くしか触れませんが、鬼一法眼は僧侶ではなく陰陽師であるとか、空想上の人物という説もあります。


また植芝盛平先生がある段階まで、合気道ではなく大東流合気柔術として免許を出していたのは事実ですが、それなら「大東流合気柔術秘伝目録」としないで、どうして「合気柔術秘伝目録」としたのか、これは本物なかという疑問はなくはありません。

下のリンク先の表紙では「門人 植芝守高」とあるので、それは植芝盛平先生が武田惣角師の弟子であることを意味しているはずです。その時代に、あえて「大東流」を外したとしたら、かなり不思議です。



そんな疑問はありますが、ともかく植芝盛平先生が、鬼一法眼の言葉を頻繁に使われていたのは、どうも事実のようです。




大東流 佐川道場の合気武道訓


合気道の「気を合わせる」の一つの側面がこういうことだとしても、大東流の「合気」が同じでしょうか。もちろん大東流でも「合気」の解釈はさまざまですが、実は大東流合気柔術 佐川道場には、佐川幸義先生直筆の「合気武道訓」が掲げてあったそうです。


その武道訓の書き出しです。

合氣ハ氣ヲ合ハス事デアル
宇宙天地森羅萬象ノ総ベテハ融和調和ニ依テ
円満ニ滞リ無ク動ジテ居ルノデアル
佐川道場合気武道訓

この合気武道訓は、『佐川幸義先生 大東流合気の真実』に掲載されているものですが、『合気問答』にも後述の『合気習得への道』にも同様の写真が掲載されています。

しかしこの合気武道訓、「気を合わせる」だけではなくて、書かれていることすべてが植芝盛平先生の言葉だと言われてもなんの違和感もありません。


もちろん植芝盛平先生は大東流を学び、大東流合気柔術の師範として教え、その後に名称の変遷があって合気道になったのですから、根底が同じ考えであっても不思議ではありません。


しかし植芝盛平先生は、大本教の信者であり、教団自体から離れてからも古神道を研究されていた方。なので言葉が、宗教的・観念的であるのはいわば当たり前ですが、佐川幸義先生の言葉遣いや文脈が区別つかないほど似ているのは不思議です。この辺りが一致するなら、佐川派大東流合気柔術と合気道は似たような思想背景を持つと考えていいのでしょうか。


いやそれは、さすがに違うと思うのですが。




「アイキ」という言葉の歴史


そのあたりを考えるのに、「アイキ」という言葉がどう使われてきたのか、ざっとでも歴史を知る必要があると思います。



「合気」というワードが使われたのは、大東流や合気道が最初ではありません。どのように使われてきたかを取り上げている書籍は、ほとんどが大東流の先生方によるものです。

私が知る範囲だと、合気道の方の書籍では唯一、志々田文明先生・成山哲郎先生 共著の『合気道教室』のみです。


合気道教室』には、「合気とは何か」という中見出しの、 江戸・明治・大正期における「合気」という小見出しでまとめられています。


引用します。


合気という言葉が、武術の世界で使用されていたことは,、近世の剣術伝書に散見されることから知ることができます。
たとえば、寛政12年(1800) の『剣術秘伝独修』には、「双方体気満々として立向ひたるは、相気なり。孫子に云く、能く戦ふものは鋭気を避く」とあります。
また、中西是助が文政5年(1822) に撰し、のちに出版された『一刀流兵法韜袍起源考』には, 「然ルニ敵ニ向フト、合気ニナリ負ケマジ勝ント相互ニ勝負気計リ修行シテハ, 終身勤苦シテモ, 兵法得ル事ハ難カ ルベシ」 とあります。 いずれの書も、合気の意味は、相互に充実した気力をもって対峙した状態をさしており、好ましくない意味で用いられています。この意味での用法は、その他の武術伝書にも共通しています。 名著といわれる高野佐三郎著『剣道』(大正4年) のなかで, 「合気を外づして闘ふを肝要とす」と記しているように、その後も一般的には剣術書などの中で積極的な意味で用いられることはなく、勝負上で注意すべき点として記されています。

そして明治期になると、剣術以外からも合気について積極的な意味づけがなされるようになったと続きます。

合気道教室』に書かれている合気道の歴史や背景は、本当に詳しくて、この一冊だけ読んでおけば十分だと思います。実際に、『合気道教室』から引用している書籍は驚くほど多いです。



ただ合気の歴史に関しては『合氣の秘伝と武術の極意』が圧倒しています。現在市販されている資料としても、これ以上に詳しい本はないはずです。


その『合氣の秘伝と武術の極意』でも、合気という言葉は、好ましくない状態を指していたという趣旨

になっています。『合氣の秘伝と武術の極意』はお二人の大東流合気柔術の対談なのですが、以前に書いていますので、詳しくはそちらをどうぞ。



この本には、合気上げは、植芝盛平先生から大東流に流入したのではないという驚くような説が書かれています。

一般的に大東流の合気上げは、上に上げるもの。合気道の呼吸法・呼吸動作は前方に押し崩すもの。細かくいうと、養神館では呼吸法は(一)から(五)まであって、(一)と(二)はまず上に上げるので、多くの合気道の呼吸法と大東流の中間にあるかもしれません。


技術としては押し崩す方が簡単です。しかし技術の優劣ではなく、そもそも何を目的にしているのかが違うと思います。

少なくとも現在の多くの合気道では呼吸力の養成法として行われていて、たぶん技ではないはず。




江戸期における脅威の「合氣之術」文献


合氣の秘伝と武術の極意』には、それ以外にも驚くような考察が出てきます。


先に合気という言葉は、江戸時代から剣術伝書に登場すると書いています。でもそれが、狭い世界でも流行したのは、明治二十五年に発行された『合氣之術』。この書籍が後世の日本の武術界に大きな影響を与えたのではないかとされていました。

合氣之術

合氣之術』は合気の存在と意味合いを明確にした理論書として、さまざまな書籍でも引用されています。


ところが、『合氣の秘伝と武術の極意』では、それ以前から講談の世界では「合氣之術」が扱われていたのではないか。

また『合氣之術』のネタ本ではないかと思われる図説物語、現代風にたとえるなら武道漫画が江戸期に存在していた。それは1803年に発行された『繪本二島英雄記』で、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いをモチーフにした絵物語だということです。


『繪本二島英雄記』で、主人公宮本無三四が山中の庵を構えて隠居する剣の達人から、武道奥義を授かる場面で、相氣の説明部分の冒頭を引用します。

武藝には相氣というふものありてこの相氣をだに得るときは百發百中千發千中さらに勝を取ずといふ事なし

確かに明治期に理論書が出ていたことも驚きですが、江戸時代から漫画や講談にもなっていたとなるとさらに驚きます。

江戸でも明治でも、現在と比較すれば、情報の拡散力はほんの微々たるもの。狭い狭い武芸の世界の話だと思っていたら、江戸時代から漫画や講談、つまりエンターテイメントになっていたのなら、武芸者だけではなく、一般の人たちにもそれなりに興味を持たれていたということですね。


今の時代でいえば、『バキ』に、宮本武蔵を渋川剛気が握手で崩した場面が出てきて、武道系やそれ以外のユーチューバーまで握手技に参戦しているような状況と似ていたのかもしれません。


いったいそれが何の役に立つのか分からないのに、漫画発の神秘の合気に取り組み、大勢の人が興味を持つ。実態はともかく、良くも悪くもそれだけの関心を持たれるネタだということですね。





合気上げの「合気」は呼吸法の「呼吸力」と同じもの?


ところで合気上げの合気は、呼吸法・呼吸動作の呼吸力と同じだと解釈されている大東流合気柔術の師範がいらっしゃいます。


著書『開祖 植芝盛平の合気道』の中で大宮司朗師範は、こう書かれています。

さて翁の流れを汲む合気道では、大東流における「合気上げ」を「呼吸力の養成法」などと呼ぶことからも分かるように、合気をもって「呼吸力」と呼んでいる。なぜ呼吸力と呼ぶようになったのか? その理由は何なのか? そうしたことを判然とさせた合気道関係者を寡聞にして知らない。

寡聞にしてとありますが、たぶん私もないと思います。少なくとも大東流の「合気上げ」と合気道でいう呼吸力は別種のものでは?と思います。


間違いなく言えるのは、大東流の「合気上げ」は上方向、多くの合気道の呼吸法や呼吸動作は前方向なので、ベクトルが違います。ところが、繰り返しになりますが養神館の呼吸法は(一)から(五)まであって、(一)と(ニ)は上方向にあげるので、かなり近いのは確かです。


合気道の呼吸力も、解釈は様々です。

呼吸力を養成する合気道各流派の呼吸法・呼吸動作を比較しているのは、この『開祖 植芝盛平の合気道』以外では知りません。





合気の名称が大東流に導入されたのは


大東流が大東流柔術から大東流合気柔術になった。そして名称・理念・技法としての「合気」が形成されたことについて、『合氣の秘伝と武術の極意』の前書きには、こう書かれています。

本来古博を黒墨守するのが建前である筈の武術古流儀というものが、その自らの名称をこの様に変容させる 事自体、真に面妖ですが、実際の所ここの部分には不可思議にして奇怪なる歴史的密儀が確かにありました。それは大東流を伝えた柔術名人、武田惣角師範と、後に「合気道」を創始した植芝盛平師範との不思議な邂逅に端を発する...。そしてそれから十何年かに渡る両師範の奇妙な交流を通じておりなす活動、綾文様の中に真に驚くべき秘儀が存在し、その様な中から「合気」なるもの、その名称と理念、そして実際技法博が次第に形成されていったと考えられるのです!

もちろん『合氣の秘伝と武術の極意』の本文ではさまざまな説が、詳細に紹介されています。もう少し詳しいところは、『「合気上げ」は、合気道発祥かもしれないとする衝撃的なおふたりの大東流合気柔術の會主宰者による対談 』にも書いています。




少なくとも名称の導入については、植芝盛平先生の甥で、親英体道の創始者である井上鑑昭師範が合気ニュースのインタビュー(『続植芝盛平と合気道』)で答えられています。インタビュアーは、もちろんスタンレー・プラニン氏です。


井上)合気武道という名前は出口王仁三郎先生が付けてくれたのです。大東流柔術ではおかしいんじゃないかと言ってね。植芝を呼んで、大東流柔術というのはやめとけ、合気という名前にしたらいいと言ったわけです。植芝は、初めは合気ということは容易に言わなかったのですが、途中で入れたのです。合気武道と私が言い出したのですからね。それまでは皇武武道と言ってました。私は植芝先生と親子みたいにしてましたから、なぜ合気武道にしなきゃいけないかをはっきり言ったのです。皇武武道はやめなさいと。皇武武道やったら必ずいつかは潰れてまた合気というものに帰ってきますと言ったのです。植芝が私の家へやって来ましたよ。「やっぱりほかを見れば皇武では困る、合気という名前を付けたから、合気道という」とね。「ああそうですか、武道というのは付けないのですか」って言ったのですが。その時分私は合気武道で教えてましたからね。
合気武道は昭和三十一年までです。読売ホールでみんなに私どもの武道を紹介したのは三十一年。それで初めて親和体道の話をしたんです。 この体道っていう名前は私が勝手に付けたんです。

このことは『合氣の秘伝と武術の極意』にも書かれています。

大東流は大東流柔術から合気柔術となったのは、大正11年ごろ、大本教の「植芝塾」で大東流柔術を教えていた植芝盛平を師である武田惣角が来訪。そのときに大本教聖師・出口王仁三郎から合気のワードを被せるようにを提案される。植芝盛平はもちろん、武田惣角も諒としたとする説があると。

植芝盛平、武田惣角、出口王仁三郎の三者がいて、そこで王仁三郎から流儀名に合気のワードを使うことを提案されたというニュアンスです。


対して、「合気」の名称を使うことを出口王仁三郎から提案された。でも植芝先生はなかなか「合気」という名称を使わなかった。井上鑑昭師範は、合気武道という言葉を使っていた。というのが、井上鑑昭先生のインタビューです。



続植芝盛平と合気道』では同じ質問を、スタンレー・プラニン氏が合気会二代目道主・植芝吉祥丸先生にされています。


道主)父が合気という言葉を言い出したのは、大正十一年(一九二二)です。これは文献ではっきりしております。大正九年に綾部へ一家が引き移りまして、十年に私が生まれたのですけどね。大正九年に 「植芝塾」という、だいたい十八畳のささやかな道場を綾部に建てました。そこで大本の人たちが中心に、若干の稽古を始めたのですが、これは開祖の主に内省的な、いわゆる自己鍛練の修行道場にほかならない。(中略)
大正十一年頃、武田惣角さんが植芝塾へ来たわけです。 武田惣角さんが、三、四ヵ月おって、そのときに父と話をし、「大東流合気柔術」として初めて合気をその流派の中に入れたわけです。それまで合気の術というのはあちこちにあることはありましたが、ひとつの流派として何々流合気というのはぜんぜんありませんでした。それまでは大東流は大東流柔術でした。大東流柔術も武田惣角さん以前にははっきりしていなかったのではないですか。いろいろな因縁・故事来歴が言われていますが、名前はそういう名前じゃないように聞いています。
プラニン)惣角先生は「大東流柔術」という呼名を使っていましたが、大東流合気柔術と合気を加えたのは出口先生の提案ですか、大東流のほうで付けたのですか。
道主)私は小さかったですからはっきりしたことは言えません。文献から言えば大正十一年の前半期までは「大東流柔術」で、惣角先生が来てしばらく経って大正十一年の暮れ、後半期から「大東流合気柔術」になりました。父は出口さんに合気じゃと言われ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうと言われたのです。そのかわり「大東流合気柔術」にしなければということでね。いまそういう真相を知っている者は誰もいない。当時の人々はすでにほとんど亡くなっているか、生きていても小さい子供時代のことです。ですから私は父が言ったことを信用するしかないわけです。
それから私どもは、東京へ昭和二年(一九二七)に出てきました。あの当時はすでに父の武道には 大東流という言葉がなくなってました。 大正十五年頃から昭和の初めにかけて、すでに植芝流合気柔術だとか、合気柔術だとか、合気武道だとか言われるようになってました。


正直なところ、時系列が、はっきりしません。


出口王仁三郎師から「合気の名称を提案された」から、先に井上鑑昭先生は「合気武道」を名乗っていたのか。植芝盛平先生は容易に「合気」という名称を使わなかったのに、なぜ大東流柔術は、武田惣角師が了解して「大東流合気柔術」になったのか。


謎過ぎます。



合氣の秘伝と武術の極意』でも、断定はされていませんが、大東流の合気の名称は出口王仁三郎師から。そして座取り合気上げは、植芝盛平先生の天神真揚流の手解きの学びから導入され、熟成されたのではないかという解釈です。


これには当然異なる説もあります。




柔術と合気柔術を区別していた


先に書いたように合気という言葉は、江戸時代の剣術の伝書にも出てくるそうです。だから出口王仁三郎師の発案であっても、言葉自体を発明したわけではありません。

また座取り合気上げの発祥が、天神真揚流の手解きから始まったのだとすれば、その合気的技法は広く柔術の世界にあったとしても不思議ではありません。


それでは、どうして大東流は「合気」を金看板にして、大東流合気柔術となったのか。



合気ニュース社長だった故スタンレー・プラニン氏が、佐川幸義先生に、まったく同じ疑問を『武田惣角と大東流合気柔術』という本の中でインタビューされています。

以前にツイートしましたので、それを貼りつけます。スレッドになっています。


この文章で重要なポイントは、最後のところ「武田先生は合気柔術と柔術とを区別して教えていました」 です。

この区別説はさまざまなところにあるのですが、最も腑に落ち度が高いのは、非力で小柄な者には合気柔術を、力のある者には柔術を教えたという理由です。


ですが、実際のところは分かりません。たとえば初伝が柔術で、その奥に合気柔術があるならまだしも、人によって初伝から違うということなら、異なる技術体系になってしまいます。





佐川幸義先生の「合気は力抜き」という定義


ともあれ、佐川幸義先生は観念だけではなく、技術として「合気」を位置付けられていたようです。

佐川幸義先生について書かれた『透明な力』には、こうあります。


合気は集中力とか、透明な力というような、いわゆる力とは違うものである。合気は敵の力を抜いてしまう技術だからである。そのうえくっつけて離れないようにもしてしまうのだから大変なことである。

つまり力抜きが合気であるという定義です。


合気とは相手を無力化する技術であると初めて明言したのは佐川先生である。佐川先生は十七歳で合気の術を修得し身につけたときから「合気は技術であり、無力化することである」と言い続けてこられたのである。例えば合気道では「合気は愛なり。合気は禊である」とか「心身一如、三位一体というような統一された結びによって発する気を合気という」( 砂泊兼基「合気道開祖植芝盛平」二一一ページ)などと言っている。ところで、筆者も過去六年間ほど植芝盛平翁の稽古に門人として出たことがあるが「合気とは己を宇宙の中心に一致させることだ」といっているのを聞いたことがある。

確かに合気道の観念的な言葉に対して、この定義は明快です。



透明な力』も『佐川幸義先生 大東流合気の真実』も、佐川道場で学ばれた師範の方々による著書です。しかし合気武道訓の冒頭の「合氣は氣を合わす事である」は観念的です。

また、同様に佐川道場で学ばれたお二人の先生が書簡によって対談された『合気問答』では、観念の合気がかなりのボリュームを占めています。


さらに『透明な力』の著者である木村達雄師範が書かれた『合気習得への道』には、「力を抜いてしまう技術が合気である」を一歩進めたような「合気は人体の防御システムのスイッチを切る技術」だとお書きになっています。


「力を抜いてしまう技術が合気である」なら、大東流が足を動かさず、あるいは動かしても少しだけで技を掛けるところを、合気道では大きく円転したりして、敵の力を無力化する技法はいくらでもあります。

しかし「防御システムのスイッチを切る技術」となると、次元が違いそうです。


手がかりは書かれていますが、「人体の非物質的システムを消されても、映像的には違いが分からない」「通常の物理的発想では無理ではないかと思います。佐川先生も“私がどのようにやってきたかを教えないと、とても無理だろう”と言われたことがありました」とあります。


もっとも「防御システムのスイッチを切る技術」とは、佐川幸義先生から学ばれた、木村達雄師範独自の解釈のようです。


また『合気習得への道』には、佐川幸義先生の言葉として「武田先生は、これが合気だとはおっしゃらなかった」と書いてあります。

だとすれば「力を抜いてしまう技術が合気である」は、佐川幸義先生独自の解釈だと考えられます。




大東流の合気とは後の先


武田惣角の三男で、大東流合気柔術を大東流合気武道とし、宗家になられたのが武田時宗先生。その武田時宗宗家に、前述の『武田惣角と大東流合気柔術』でスタンレー・プラニン氏がインタビューされています。



合気道も大東流も比較できる言葉や資料は、もしスタンレー・プラニン氏がいなかったら、ほとんど残っていなかったのでは思います。

ともあれ、合気についてのところを引用します。


プラニン)大東流における「合気」の意味についてお伺いしたいのですが
武田)大東流の中の「合気」とは、結局後の先なんですよ。後の先を簡単に「合気」と言っているのです。先先で言ってるのは「気合」です。「気合」がなければとても相手に対せないですよ。 警察は柔術(気合、攻撃型)ですね。攻撃する、つまり護身でない、積極的な柔術でないとできないのです。「合気」という言葉は使いません。あくまでも柔術なのです。 実際に警察官が犯人を逮捕する場合は、縄をかけたり手錠をかけたりしなければならない。手を掴んでみろ、胸を掴んでみろなんてことは絶対やらない。後の先ではだめなのです。自分から攻撃していかなくてはならない、逃げた犯人を追いかけて捕まえなくてはいけない。先手をかけら攻撃したっていいのですから。警察官が大東流を習ったというのはそういうわけなのです。
プラニン)今は柔道、剣道、合気道等をまとめて逮捕術となっているようですが。
「合気」という言葉があるのは護身術だからです。ですから、一般の人には「合気」という言葉を使っています。 護身術は、自分から攻撃しません。座って立った人を投げるのは大東流にしかないのです。これは惣角が前から言っていました。座っていて相手が攻撃した時のみ投げるのです。これを「合気」というのです。ですから一般の人が合気道と言っているのは、攻撃された場合の技なのです。つまり、大東流では護身に使う場合に、「合気」という言葉を使うのです。
プラニン)「合気」と「気合」についてもう少し詳しくお話しくださいますか。
武田)「合気」とは、押してきたら引く、引いたら押してやるという、気に合わせる緩急の精神です。反対に気合というのはあくまでも押すのですが、合気は逆らわないのです。 剣道でも同じことですが、自分が攻撃したら負けるのです。 先に斬り込んだら負けることになるわけだ。みんな後の先なんだ。斬り込まなければいいんだ。それを活人剣といいます。 それから殺人剣というのがありますね。出会った相手がぱっときたら受け流し、それから最後に斬る。それを簡単に言えば後の先です。それから先先というのは先に攻撃して勝つのです。気合で勝つということです。だから一刀流はほとんど後の先ですね。剣道の形も後の先です。必ず攻撃したら負けです。
「合気」というのは先先の勝ではないのです、相手に突っこまれた場合とかの後の先です。大東流はみな後の先です。相手が攻撃してくるのを外して打つという後の先です。相手が攻撃してくるからやる、ここに活人剣、殺人剣の極意があるのです。相手が攻撃してきた時、一回は制する、再度攻撃してきた時相手の太刀ごと折って命を助けてやる。これが活人剣です。相手が斬り込んできた時そのまま腹を突き通す、これが殺人剣です。この二つが剣の極意です。剣の形が大事な のです。
合気道と大東流は意味が違うのです。大東流は掴まえたら第二、第三の技と必ず続くのです。一つの技だけではない、一本目、二本目、三本目と続くのです。

これはかなり分かりやすい。

合気とは、護身術で後の先。気に合わせる緩急の精神。大東流は、捕まえたら第二第三の技と続く。


武田時宗先生は、刑事でもあったので、警察は気合を必要とする攻撃型の柔術だという説明。それに対して護身術は後の先。これが合気だというのは明快です。


しかし佐川先生も武田時宗宗家も「氣を合わす事」を思想としてベースに置きながら、合気の説明となると違いが出てきます。


他の大東流の先生方も追っていくと、いくらでも違いがあるのですが、このブログでは「合気道の合気とは?」がテーマです。しかし、植芝盛平先生の直弟子で合気について言及されている方は、とても少ないですし、観念的です。少なくとも技術としての合気は、もっぱら大東流の先生方が提示されていますので、合気道の立場からもそこをある程度追う必要はあるだろうと思います。




時代によって変遷する合気の捉え方


ところが近年では、「合気上げ」を中心に、YouTubeなどでは合気道や他の武道やジャンルの方々も、合気上げや合気という言葉を使って動画を公開されています。


合気道の人が使う言葉としての「合気」も、時代の変遷で大東流合気柔術からの影響を大きく受けているようです。元々合気道の技法は、大東流合気柔術がベースになっていますが、先祖返りということではなく、設定や様々な技術がオープンになっていることで、昔とは違う影響を受けていると考えられるのではないでしょうか。


かく言う私も「合気上げ」という言葉を使って動画を上げています。

これは臂力の養成は、座ってもできるよというものですが、上方向に上げて崩しています。

前述の通り一般的に大東流の合気上げは、上に上げるもの。多くの合気道の呼吸法は前方に押し崩すものなので、ここでやっていることは外形的には「合気上げ」と類似しています。

なら言葉として、「合気上げ」が分かりやすいからと使ったものです。

 

ここで大東流の先生方のおっしゃる「合気」を使っているかというと、使っていません。


私は何人かの大東流の方から合気上げを教えてもらいましたが、ここでは一切その技術を使っていません。もちろん使おうとしたところで私が使えるかどうかは分かりませんが、とにかく上げるだけなら必要ないと考えています。

この動画は通常の精晟会渋谷の稽古ですので、立位でやる基本動作・臂力の養成(一)の相対を、正座してやっているだけです。臂力の養成の原理を理解していれば、座位でもそこに持ち込むことができるという考えです。


養神館に座り技呼吸法は(一)から(五)まであるのに、なんでこんなことをするんだとお叱りを受けたとしたら、これは座った設定の臂力の養成ですからと私は言い訳、いや説明するつもりです(笑)

養神館の座り技呼吸法は(一)から(五)は技になっているので、あくまでも座った状態で、しかも体重を掛けられたところから、臂力の養成するための方法。


そう考えてやってみました。ポイントはガッツリ体重を体重を掛けていること。そして自分より、はるかに体重の重い人相手を上げること。


この現象を力まずに起こせれば、通常の呼吸法よりも、自信がつくようです。なら、稽古法のスタイルとして取り入れるのはありかなと思います。



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