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合気道養神館は、どうして独立したのか


養神館創立メンバーの写真

養神館合気道 精晟会渋谷に入ってくれた人たち体験に来ていただいた方々は、あまり養神館やさまざまな合気道の流派・会派についてご存知ありません。

私は知っているつもりでしたが、養神館設立の経緯については、ほぼ平成十七年に発行された『合気道養神館 設立50周年記念誌』で知ったのです。

この写真には「道場もなく、さまざまな場所で演武をしていた頃の養神館創立メンバー。左から塩田館長、松尾忠敬氏、田中茂穂氏、渡辺準任氏、寺田範士。これに日本鋼管の野口幸夫氏が加わる」とのキャプションが付いています。

田中茂穂氏とは、現・至誠館名誉館長。寺田範士は、当時の養神館最高顧問です。故人ですが、私の所属する精晟会は、寺田先生の高弟の先生方が作られた養神館の中の団体です。

養神館の誕生には、第二次世界大戦、そして戦後の混乱が大きく影響していました。

8月15日は、72回目の終戦記念日でした。設立の経緯をご紹介するにはいい機会だと思い、『合気道養神館 設立50周年記念誌』に書かれていることから引用してみます。

合気道養神館 創立50周年記念誌の表紙画像

養神館の黎明期 -道場ができるまで

以下、黎明期のページから書き起こしました。

 

 終戦直後、GHQ(連合国最高司令官総司令部・アメリ力が設置した対日本占領政策の実施機関)は、武道を軍国主義の温床と見なし、学校機関における稽古を禁止した。その風当たりを受け、学校機関に限らずとも、公然と武道の稽古をするのははばかられる状況だった。

 戦時中から日本の敗戦とその後の混乱を察知していた植芝盛平開祖は、自らの行に専念するため茨城県の岩間に合気苑と称する農園・道場・神社(合気神社)が一体となった施設を構えて移住していた。一方、新宿の本部道場は空襲の被災者の避難所となっており、そのまま住み着いた人もいて、充分な稽古ができる状態ではとてもなかった。 そんな合気道雌伏の時期、インドネシアでの収容所生活をヘて塩田館長が帰国した。しかし、住むところも職もなく、一時、家族と共に合気苑に身を寄せて修行した後、さまざまな仕事を転々とする日々を送っていた。転機が訪れたのは二十七年だった。日本鋼管・鶴見製鉄で守衛を務めていた塩田館長は、系列事業所である浅野ドックの高橋秀雄総務部長が、館長の両親が仲人を勤めた人物であったことから、推薦されて鋼管の関連事業所で合気道の指導を行なうようになった。

 その年、日米講和条約の発効により、GHQが撤退。日本は主権独立を回復した。しかし、長い占領期間中、日本の精神文化の伝統は、ことごとくGHQによって否定されていった。自らの文化に対る誇りを失った日本人も多く、国家再建を担う人材の育成は大きな課題となっていた。  塩田館長の学生時代からの相談相手でもあった思想家の松田高平氏も、日本人の心の荒廃を憂える一人だった。もともと植芝道場の稽古を通じて知己を深めた関係でもあり、「和の武道」を提唱する合気道の哲学と、館長の技の冴えを充分に知っていた松田氏は、新生日本を支える人材育成の拠として、塩田館長に道場建設を提案した。そして、自ら趣意書をしたため、緒方竹虎副総理や後の首相岸信介、さらには朝日新聞出版局長の比治隆一氏や警視庁警備部長の増井正次郎氏などに、塩田館長と合気道の支援を働きかけたのである。

 塩田館長と同志の寺田精之、松尾忠敬氏らは、南州建設の矢野一郎氏の好意で恵比寿の同社内に構えた「道場設立事務所」を拠点に、設立趣意書を持って協力要請に駆け回った。中でも強く後押ししてくれたのが、東大名誉教授の仏文学者辰野隆氏である。氏は作家の吉川英治氏、火野葦平氏、さらには国策パルプ副社長水野成夫氏を紹介してくれた。  水野氏とともに演武を見た同社常務の南喜一氏は大変感銘を受け、経済同友会にこれを紹介。同会が運営する経済同友クラブの日本間で、稽古が行われることとなった。同友会の代表幹事だった都民銀行頭取の工藤昭四郎氏は、先頭を切って稽古に参加し、多くの財界人や作家の尾崎士郎氏がこれに加わった。マスコミがこぞってこれを書き立て、合気道という武道と塩田剛三の名は一躍世間に知られるようになった。  その間、警視庁教養係長・木下氏と広報課長・不老山氏の知己を得て、管内八十三の警察署での巡回演武を実施。また、ライフエクステンション主催による戦後初の総合武道大会に、群を抜く卓越した妙技で喝采を浴び、ニュース映画で大きくクローズアップされるなどして、館長は次第に、戦後における合気道の第一人者として、世間に認知されるようになった。

 本家の植芝道場も二十三年に財団法人を戦前の皇武館から合気会ヘと改組し、のちの二代目道主である植芝吉祥丸氏が道場長となって、二十四年には本部道場での定期稽古が再開され、合気道復興の気運が高まっていた。しかし吉祥丸氏は当時まだ会社勤めの傍らの道場運営であり、また開祖は合気道を大衆に公開する考えはなく、主に岩間の合気苑と 大阪・関西方面での指導者育成に力を入れており、世間にまでその活動が届くことはなかった。したがってこの時期、マスコミを通じて広く世間に合気道の魅力を普及したのは、事実上、塩田館長だったのである。

 やがて同友クラブの日本間では手狭になり、南氏の呼びかけで、専用の道場を作ろうということになった。合気不動産という会社を設立し、ここに財界からの出資を集め、やがて新宿区筑土八幡に土地を購入。念願の養神館道場が建築されるのである。

 

経済同友会の日本間で稽古を始めたと聞くと、立派なものを想像してしまいますが、足下を見てください。なんとゴザが敷かれています。当時は財界でさえ、豊富な資金があったわけではないのですね。キラ星のようなお名前が並びますが、そう考えながら読む必要があるかと思います。

寺田精之最高顧問の回想から

寺田先生の回想ページを、書き起こしました。

 

私は昭和十五年に拓殖大学の予科に入りました。そのとき学部(本科)の三年に塩田館長がいらっしゃったのです。その頃から、あの人に手を握られただけで動けなくなるとか、大学の中でも強さは有名でした。  翌年に、塩田館長が作られた志道塾という学生寮に入りました。柔道、剣道、古武道などの指導者を招いては、盛んに稽古に励んでおり、思想家の松田喬平先生が塾頭を務めていました。 十八年に学徒動員で召集され、終戦で帰ってきてからは故郷の長崎でしばらく百姓をやり、二十四年頃に上京しました。再会した塩田館長に誘われたこともあり、植芝道場に入門したのが二十六年でした。

 館長はその頃、植芝道場の稽古にはあまり参加していませんでしたが、道場の宴会や演武会には時々来られて、植芝先生の受けを取ることもありました。当時、館長の受けは激しくて、大先生に「あまり張り切るな、怪我するぞ」と、叱られていました。  合気会では初段をいただきましたが、植芝吉祥丸先生にいちばん教えていただきました。私の下宿が石神井にあったのですが、あるとき塩田館長が遊びに来て、「吉さん(吉祥丸氏)を呼んで飲もうじゃないか」と言うのです。お二人は吉さん、剛(たけ) ちゃんと呼び合う間柄で、もともとたいへん仲が良かったのです。 それで吉祥丸先生も私の下宿にいらして、三人で大いに飲んだことを覚えています。二十七年から館長が日本鋼管の指導をやるようになり、人手が足りないので私や後輩の松尾忠敬君が呼ばれて手伝うようになったのです。この年の秋に、鋼管の川崎製鉄所で昇級審査をやったとき、植芝先生に来ていただきました。塩田のところが発展しているんだなということで、先生は大変喜んでいらっしゃいました。

 そんな頃、松田秀高平先生が、「塩田に道場を作ってやろう」とおっしゃいまして、養神館道場設立趣意書を書いてくださり、政財界のいろんな大物に紹介してくださいました。そこから経済同友会のバックアップが始まり、周囲から養神館道場設立の気運が高まっていきました。 ですから、塩田館長が合気会に反旗を翻したというようなことではないのです。植芝先生との師弟関係は変わりませんでしたし、実際、その後もしょっちゅう合気会の催しには顔を出していました。でも、合気会の人たちからしたら、面白くなかったんじゃないですか。私は植芝家を立ててやったほうがいいんじゃないかと思っていたので、あの頃、私たちが止めていたら、別れずにすんだのかもしれません。  道場ができる前、一度塩田館長がマスコミの記者に、自分は養神館としてやっている、とおっしゃったのを横で聞いて、ビックリしたことがありました。その頃から館長は、お父さんの作られた養神館道場の名前を継ぎたいという思いがあったのでしょうね。

 

当時の雰囲気を物語る写真もあります。経済同友クラブでの稽古が始まったの頃の写真です。

合気会での懇親会の写真

写真のキャプションには「29年頃、合気会で開かれた懇親会。後列、子供を抱いているのが塩田館長。右端が寺田範士。中列右端から山口清吾氏、松尾忠敬氏、有川定輝裏氏、前列右端が斉藤守弘氏、1人おいて藤平光一氏、左端が植芝吉祥丸二代目道主。養神館として独自の道を歩み始める直前の1枚」とあります。

この写真には、養神館創立メンバー6人のうち、3人の先生方が写っています。養神館だけではありません。斉藤守弘氏とは、開祖の晩年まで直接の指導を受け、岩間スタイルと呼ばれる武器技まで含む体系を作り上げられた先生です。藤平光一氏とは、後に心身統一合気道を設立された先生です。ともに故人ですが、独自の道を歩まれる芽は、この頃にあったのかもしれません。

『合気道養神館 設立50周年記念誌』以外にも、市販本では下記の本などで、合気道が多様化する流れを垣間見ることができます。

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