top of page
BIトップ外ヘッダ.jpg
合気道ブログ.jpg

合気道は剣の理合。なのに開祖はどうして剣を教えなかったのか?



合気道は、剣の理合だとよく書かれています。

理合とは、辞書的には「わけあい。理由。道理」(goo辞書)となります。武道的には、勝つための道理、こうなればこうなるという道筋だと考えればいいんじゃないでしょうか。


今回も合気道の用語です。

合気道の正面打ちや横面打ちは、手を手刀にし、あるいは腕を刀に見立てて斬って行きます。でもそれは剣を模しているだけで、それぐらいのことで「合気道は剣の理合だから」と言うのは、かなり無理があるように思います。

この用語シリーズは、開祖の直弟子の先生方の言葉から意味を探っていくことが主旨です。今現在、これが合気道のだとされていることは、開祖の考えとは真逆になっていることだって少なくありません。


そういう主旨ですので、私の個人的な見解は後回しです。

動画にしていますので、ご興味のある方はこちらを見てください。




植芝盛平先生のおっしゃる剣とは日本刀なのか?


開祖が「合気道は剣の理合」だとおっしゃったのかどうか、色々と調べてみましたが、探し当てることはできませんでした。もちろん後述しますが、さまざまな直弟子の先生方が「植芝先生は、合気道は剣の理合」だとおっしゃったとインタビュー等で答えられていますので、確実だと思います。

ただ、「それなのに一向に剣を教えてくれなかった」と続くのです。どころか、弟子が剣を使っていると「誰の許しを得た」と怒ったという話さえあります。


いやもう、かなり無茶苦茶です。

以前にもブログに書いていますが、ある直弟子の先生が講習会で「植芝先生は、合気道は剣の理合だ剣の理合だと言われるのに、一向に剣を教えていただけなかった」「仕方がないので、国井善弥に弟子入りした」とおっしゃっていました。


なぜ、「合気道は剣の理合」だとおっしゃりながら、剣を教えることをされなかったのでしょう。このあたりの事情を解説した文章を読んだことがありません。

以前の私の推測は、こちらに書いています。




話を元に戻すと、開祖の言葉として探せた剣はこちらだけです。

武産合気」から抜粋します。


合気は須佐之男ノ大神のお使いになったみ剣の名前である。即ち武産合気である。祭政一致の大なる平和の道、営みの道、神のたてたる栄えの道である。その道に使って頂くところの剣にならなければいけないということである。

え、スサノオが使った剣の名前? 

スサノオは、表記の差はあれ古事記や日本書紀に登場する神です。

しかし粗暴な行いで、それを恐れた天照大御神は天の岩屋に隠れてしまう。そのため、スサノオは高天原を追放されたという、あの有名な話の神です。


神話の話ですし、どう考えても理念的な意味合いで象徴的に「須佐之男ノ大神のお使いになったみ剣」というフレーズをお使いになったのではと思います。

しかしスサノオが使った剣とはなんでしょうか?


高天原を追放されたスサノオは、地上に降り立ちます。そこで美しい娘と老夫婦が泣いているところに出くわします。毎年、頭と尾が八つずつあるヤマタノオロチがやってきて娘を食べてしまう。今年はこの娘が食べられてしまうと。その話を聞いたスサノオは、ヤマタノオロチを退治する代わりに娘を嫁に欲しいと申し出ます。

ヤマタノオロチを退治するときに使った剣は、十字剣。そして退治したヤマタノオロチの尾から出てきたのは、草薙剣です。草薙剣とは、言うまでもなく天皇の三種の神器のひとつ。


どちらの剣にせよ、日本刀の形状ではありません。

草薙剣のイメージ画は、どれも真刀です。



ということは具体的な剣や技法ではなく、「平和の道、営みの道、神のたてたる栄えの道」ですから、いわば活人剣より高次元の役割を持つ剣が合気だとおっしゃりたかったのかもしれません。


開祖のお話を理屈で解釈しようとするのが無謀なんですが、もしかすると弟子が剣を使うと、それは殺人剣。「平和の道、営みの道、神のたてたる栄えの道」として剣を使えるようになったら、それが合気だ。とおっしゃりたかったのかもしれません。


仮にそうだとしても、はいそうですかと大人しく聞いていられる弟子ばかりでないことは、容易に想像できます(笑)




合気道は剣の理合を体で表現したもの


もちろん、開祖は剣の理合を示された稽古も行われています。1957年だとされる、こちらの動画で見ることができます。


ただこれは、剣対剣。剣の理合を体術として表現したものではありません。



「合気道は剣の理合を体で表現したもの」「ところが合気道は剣なりと言いながら、その握りさえ知らない指導者が大勢出てきております」とおっしゃるのは、西尾昭二師範。

このフレーズは、西尾昭二先生のDVDの中に出てきます。

DVDのプロモーション動画がこちらです。



西尾昭二先生はどういう経緯で、剣や杖を習得されたのでしょうか。

月刊秘伝の2005年10月号に追悼の特集がありました。剣や杖の前、合気道を始められる前は柔道、空手をおやりになっています。

ここから引用します。


西尾師範は、開祖の遺う剣の技を見て驚愕する。 目にも留まらない鋭い剣の技を見せながら、しかし開祖は何も解説することはなかった。
「『合気道の動きは剣の動きだ』と皆いいます。確かに翁先生はすばらしい剣や杖の技を見せてくれますが、それはパッとやってすぐにおしまい。『わかったかといわれて『はい』と答えるけれど実際はなにもわからないそれで先輩に聞いてみてもやはり要領を得ないんですね。これは自分でやるしかないと思い、剣や杖などの武器術を学びたいと考えていました」
昭和三十年頃、横浜の松尾道場から本部へ合気道指導の申し込みがあった。ここは空手や古武術を教えており、特に居合道と杖道が盛んだった。西尾師範は志願して指導に出向き、合気道の指導をしながら杖や居合を学んでいった。杖は神道夢想流を学び、後に清水隆次師より親しく指導を受けている。居合は無双直伝英信流の佐野茂徳師に学び、さらに開祖の弟子でもあった羽賀準一師からも剣を学んでいる。
「合気道を学び、さらに剣を学ぶことで、本当の捌きや当身ということがわかってきました。 たとえば合気道では投げを行う前に『つくり』と『崩し』を行いますが、この『つくり』は当身の呼吸で行う。 相手が動く一瞬前に当身を入れる呼吸で動き、現実には当身を入れないで投げへの『つくり』につなげていく。だから合気道は、技を行う前に常に勝っているのです」

このDVDのプロモーション動画に出てくる横面打ちに対する対応を見てください。


西尾昭二先生の説明にある通り、一般的には横面は受けます。ところが手を剣として考えるなら、そして剣の理合でなら、初手の横面に対して受けずに真っ直ぐ突けばいいのです。

まさに「相手が動く一瞬前に当身を入れる呼吸で動き、現実には当身を入れないで投げへの『つくり』につなげていく。だから合気道は、技を行う前に常に勝っているのです」ということを体現されています。


私は西尾昭二先生のDVDを複数持っていますが、まったく凄まじいです。

徒手の技を、杖対杖、剣対杖でも再現されていますが、こんな風に武術的に構成されるのは、もの凄い才能と努力なのかもしれません。


言葉だけで言うのは簡単ですが、西尾先生は剣杖を、獲物の間合いではなく、徒手の近接した間合いでお使いになっています。この間合いで「現実には当身を入れないで投げへの『つくり』」にするには、かなり仕手受双方の剣杖の力量が必要だと思います。

西尾先生の「合気道は剣の理合を体で表現」への真剣度がうかがえます。


そのほか剣による斬りや杖による突きなどが、ひとつの技の中で複数回出てくるのも、西尾先生の技法の特徴です。確かに、隙、死角があれば、いくらでも打突が入って当然です。





鍛錬法としての剣杖


西尾昭二先生が、合気道を始められたのは1952年。その少し前、1950年に植芝道場に入門された多田宏先生はこうおっしゃっています。


植芝盛平と合気道」から引用します。


大先生は、一時期、道場生が剣や杖を使うことを非常に嫌われたのです。「やってはいかん」と怒られた。しかしその後、教えられるようになりました。
もともと私の家には弓の流儀が伝わっていたから、子供の頃はやっていた。中学時代は剣道をやった。戦争中ですからスポーツ的なものじゃありません。合気道を稽古するようになって、一人で家で立ち木を相手に剣を振りました。
どのようなものでも一人稽古が大事でしょう。自分でプログラムを作って、まず走る。二十代から三十代の初めまでは、毎朝五時半に起きて、十五キロほど走りました。そして家に帰ったら立ち木と横木打ちをする。昔の自由が丘の家はどこもみな広かったから、いくら音をたてても平気だった。示現流の稽古法ですね。岩間で大先生に習った。昔の薩摩藩の侍は、立ち木や粗朶を束にした物を、毎日一万回打ち込んだと言いますが、私はせいぜい五百回程度ですね。最初は手が痺れますが、そのうちに大きな木を思い切り打ち込んでも痺れなくなる。早稲田や学習院の会員にもやらせるようにしたこともありますが、これが合気道にはいちばんよいと思います。

時系列的には同じはずですが、多田宏先生は「その後、教えられるようになりました」とされています。もしかすると、西尾先生は「 目にも留まらない鋭い剣の技を見せながら、しかし開祖は何も解説することはなかった」ですから、同じことかもしれません。


多田宏先生は、示現流の稽古法を岩間で教えられたとあります。開祖が岩間に合気苑をお作りになり、転居されたのは1942年。西尾昭二先生や多田宏先生が入門された1950年ごろは、開祖がいらっしゃったのは岩間であって、東京へはたまに出てこらえる状況だったのではないかと推測されます。




岩間での剣杖の稽古


斎藤守弘先生が岩間で入門されたのは、1946年。

数年の差ですが、時系列は重要です。


植芝盛平と合気道」から抜粋します。


大先生は、合気道の説明は剣から始めました。必ず「おい、お前、木剣もってこい。つまり、 こうじゃ。つまり、ああじゃ」と、大先生は、合気道の無抵抗主義の体のさばき、剣のあわせ、すべて合気道の説明を剣から始められたのです。これは不可欠なものです。

岩間では徒手の技の説明も、まず剣から始まったと。そのころの東京での稽古でも同じだったかもしれませんが、とにかく開祖が常駐されているわけではなかったのは確かでしょう。


合気道をやるのには、常に真剣一対多数の真剣を考えなくては合気道にならない。剣をやっている時、いつ剣が折れても、剣が手から離れても、自由に動いていける体さばきが必要なのです。いつも飛び込んでいける体勢、気がまえが必要なのです。それには合気道独特の体のさばきがあるわけだ。剣を考えないと、どうしても体のさばきに隙ができるんです。剣だと、さわったら切れるからね。

間合いと理合は異なりますが、「剣だと、さわったら切れる」のです。剣の長さプラス腕の長さ。剣をイメージした体捌きは、徒手のそれと異なって当然です。

合気道は剣の理合として行ったときに、この間合い、体捌きが再現されているかでしょう。


多田宏先生が岩間で教えられた示現流の稽古法、少なくとも横木打ちの台は、斎藤先生がお作りになったのです。




武産合気道 基本技術編1」から引用します。


「最初の頃の剣の稽古は大先生がただ『打ってこい』と言うだけ。 私は子供の頃剣道をやったのでなんとか格好はついたけどね。 そのうち先生が鍛練打ちの台を作れと言うので自然木でYの形をしているのを2本地面に立てた。木の枝を束ねて乗せるためだった。 これを見た大先生は「こんな細いの役にたたん』 と言うなり、木剣でY形の自然木を真っ二つに割ってしまった。そこで考えた末、今度は丸太を2本組み合わせて地面に打ち込み針金でしっかり固定して木の枝を束ねて乗せた。
今度はこれを見て『よし』と褒めてくれた。それでも1週間ももたない、ボロボロになってしまう。だからこっち叩いたりあっち叩いたり毎日打ち込む場所を変えてね。1週間経つと新しいのを作った。その頃は山にいくらでも木はあったので問題はなかった。
稽古が進んでくると、「一の太刀」を教えてもらった。これだけで3年くらい、ほかには何も教えない。ふらふらになるまで打っていくだけ。 動けなくなると『よし』と勘弁してくれた。毎朝の稽古はこれだけ。しまいには、ほとんど先生と二人っきりの稽古になった。」

この横木打ち、開祖と斎藤先生が反対側からバンバン打つ様子が、DVD植芝盛平と合気道 第6巻 合気道の心に出てきます。



しかしまず横木打ちから始められたと言うことは、岩間でも剣の技術よりも先に、剣を使う身体作りのための鍛錬に重点が置かれていたことが分かります。

空手などの打撃系でも、突きや蹴りが正確になり威力が増せば増すほど、自分の身体にも衝撃が跳ね返ってきます。巻藁やサンドバッグなどへの突き蹴りをやっていないと、相手にダメージがないのに自分は筋や関節を痛めてしまうということになりかねません。


と書いたものの、私の想像ではなく、横木打ちの効果を書いたものはないかと探してみたら、ありました。月刊秘伝の2007年4月号の特集「戦闘コンセプト別 名門古流剣術入門」から引用します。

秘伝によると、横木打ちは示現流ではなく薬丸自顕流の稽古法だそうです。


井谷師範に、薬丸自顕流における横木打ちが、修業者へどのような変化をもたらすものなのか、 まずは率直に訊ねてみた。
「もちろん初心者にとっては打突時衝撃に耐えられるといった筋力養成などの面もあるでしょうが、修業者のレベルによって横木打ちもその目的がわってくると思います。 レベルが高くなればなるほど、精神的な意味合いが高くなってきます。いかに、常に敵の中にいるか、そのイメージを頭の中に描いて横木を打てるか。 鹿児島で言うところの意地を深めた打ちをいかにできるか。その認識力の勝負になっていくのです」
この意地とは示現流開祖の東郷重位が悟得した最大の極意であり、薩摩人の根幹に根ざす原初の精神性とも思えるものだ。

後半の精神性・意地については分かりませんが、やはり打突時衝撃に耐えられる肉体という意味合いはあるようです。

そして衝撃に耐えられるうんぬんは初心者向けとあるものの、実際の横木打ち写真のキャプションには「横木を打った瞬間に、手首、手の内が打ち負けて、肘が開いてしまってはダメ。両肘を絞り込んで、横木を断ち切る勢いを保つ。手首のスナップはほとんど使わない」という趣旨の文章があります。


そんなの剣では普通でしょと思う人は少なくないかもしれませんが、写真を見ると、これほどの肘を絞り込みは、まずないはずです。

体幹の重みで剣が跳ねるのを抑え込むということでしょうか。


私は養神館でいうところの固定力。二ヶ条での固定力と、同種のものだと思いました。もっともこれだけの勢いと絞りで二ヶ条をかけたら、手首を破壊してしまいそうですが(笑)




岩間の剣はどうして太い


岩間流で使う剣も杖も太いです。初めてみたときには驚きました。

なぜ太いのかを尋ねると、バンバン打ち合うと折れてしまうから太くなっていると聞きました。


全剣連杖道で使う杖は、直径24mmと規定されています。それで打ち合っても折れませんが、杖取りをして投げようとすると、かなりしなって恐ろしいです。うちでは、もう少し太い杖を使います。岩間の杖は、それより太いです。たぶん直径30mm超でしょうか。

岩間流の剣と比較すると、杖道の太刀は短く軽いのです。


想像すると岩間の杖が太くなった理由は、剣が太いから。

岩間の剣の形状は、かなり独特です。鍔をはめる段がありません。剣先が尖っていません。そして太い。



合気会御用達の岩田商会によると、岩間流木刀として売られていますが「開祖植芝盛平翁の愛用されていた木刀の形を模したもので岩間流木刀とも呼ばれています」とあります。


星道のウェブサイトには「岩間流大刀は、齋藤守弘先生の岩間流合気道の稽古で使用され、 通常の木刀より重量があり、手の内、素振の練習にも最適です。切先まで太く、バランスが普及型木刀とは大きく異なります。 また、切先が切り落とされた形のため、万が一、相手を突いてしまっても大きなケガになりません」とあります。


開祖がお使いになっていた形ということですが、鍛錬するためのもので、なおかつこれで激しく撃ち合うから切先をなくしたのではないか、と考えられます。

この剣で打ち合うから、杖は必然的に太くなったのはないかと。




真剣を使った野外稽古


開祖は、まず肉体的な鍛錬。それがあってはじめて剣杖の使い方を教授されたのは、斎藤先生の言葉からも明らかだと思います。

そうであれば、肉体的な鍛錬をしないない人たちが、剣杖を使うのを許されなかったのも理解できます。裏付けなしに剣取り・太刀取りだろうが、剣対杖であろうが、武器を扱うことは、いわば極意にかぶれるみたいなことだと考えられていたのではないかと。



もう一つあるのは、真剣を想定した立ち会い。

塩田剛三先生が著書「合気道人生」で書かれているのですが、京都の鞍馬山での毎年弟子を2〜3名連れての二十日間の稽古。真っ暗闇の中、白鉢巻を締めて真剣を使った稽古をされたそうです。


「合気道人生」をベースに、加来耕三先生が『武闘伝』で物語的にお書きになっています。演出過剰ですが、気分的にはこういうかもしれません。

ツイートしたものがありますので、それを貼り付けます。



真剣を使った稽古、昼間ですが、DVD植芝盛平と合気道 第6巻 合気道の心』にも収録されていました。これは1961年日本テレビ制作のドキュメンタリー映画「合気道」の「真剣の合わせ」とナレーションされる場面。

植芝吉祥丸先生が真剣を腰に刺し、抜刀しようとするところに開祖が飛び込んで抑えます。



ごくごく少数の弟子に対しては、身体的な鍛錬だけではなく、精神的な、ギリギリの胆力を養うこともされていたと言えるのではないでしょうか。




剣の理合を体術で表現してはいなかった?


あくまで私が探した範囲ですが、開祖が剣の理合を体術に落とし込んだものとして教えられた形跡はありません。

開祖が剣を用いて指導されたことを整理するなら、ふたつになると思います。


1.剣術の鍛錬方法を取り入れ、木刀を使った稽古

2.真剣を使った胆力の養成



1は、ほぼ肉体的な鍛錬です。


2はどれほどの直弟子の先生方が経験されたでしょうか。いわば超エリート教育。

塩田剛三先生は、鞍馬山での毎年弟子を2〜3名連れてとお書きになっていますが、戦争中は中断されたでしょうし、戦後もほぼ行えなかったのではないかと想像されます。仮にそうだとすれば、実施されたのは戦前の数年間。であれば、10名にも満たないかもしれません。



1の肉体的な鍛錬は、岩間では圧倒的に行われていたと思われます。

それ以外は、剣対剣の合わせや剣取りなど対剣を想定した体捌きなどの稽古で、徒手対徒手で行っている技の動きの意図を理解したり、動きの精度を上げるということだったのではないかと思います。

だから「合気道は剣の理合」だとするのは、少なくとも今現在は結構無理がある。



いや剣に限らず、徒手の技だってそうなのです。

塩田剛三先生によれば、こういうことだったようです。「植芝盛平と合気道」から引用します。


昔は教えるというよりは神憑りというか、とにかく道場に出てこられても自分で思い浮かんだ技をやられるだけでね。「覚えて忘れろ、覚えて忘れろ」と言って、現在のように細かく教えていませんでしたね。
だからやっぱり自分で探究しないと駄目なんでしょうね。私は、植芝先生の長い間の教え、その基本を私なりに創りあげて、現在やっているんです。

「覚えて忘れろ」とは、カタチに捕われるな。技の名称に捕らわれるなということだと思います。

この技を出そうと思って動くのではなく、相手との関係・状況で、もっとも適切な技が自動的に出てくるのが、植芝盛平先生の考えられた理想の姿ではないかと思います。


剣の理合も、それと同じ。剣を使っていれば、あるいは徒手の体術をやり込めば、剣の理合も自ずと体得できるでしょうか?

いや、それも無理がありますね。