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合気道には固い稽古と流れの稽古がある? その分岐点を辿ってみると



今回も合気道の用語。「固い稽古」「流れの稽古」というワードをよく目にしますが、養神館ではまず使われることのない言葉です。


想像すると本来、対立するような稽古方法ではないと思いますが、どうも譲れない主張があるようです。


最近も「出稽古に来た人の腕を掴んだら動けなかった」というツイートを読んだと思ったら、そのあとYouTubeで、がっちり腕を掴んできた相手に対して「そんな風に掴むのが間違い」「合気道は争わないというのを知らないのか」というコメントとその盛り上がりを読んで混乱しました。

初心者向けの話かと思ったのですが、そうではないようです。



私自身は、少なくとも後者は錯誤していると思います。

後述しますが争わざるの理は、仕手・取りのあり方であって、受に対してではないはずです。争うつもりがないのに腕を掴んで来るなら、それは求愛行動か何かでしょうか。


合気道は「争わない」から「動けないように掴まない」とするロジックが正しいなら、打ちも突きも短刀も杖も剣も、何も使えなくなってしまいます。

もちろん動きを覚える段階ならそれもそれもアリですが、安全のためならゆっくりやればいいはずです。初心者向けの話ではなく、あくまで「合気道は」受は強く掴まないということでした。



養神館は掴まれる技で、がっちり掴まないなんてことは少ないと思います。ただし掴み技で強く掴まれても、(一)の技では引かれる、(二)の技では押されるですから、最初から動きはあります。

精晟会渋谷では、私には何をしてもいいと思われているようで、今は説明している段階なのにと閉口することは、けっこうあります。後ろ抱きの技などは、体格の勝る相手に思いっきり締められると本当に大変です(笑) 


困ると、解決方法はあるはずだと考えます。精度とともに、やれる方法が増えていくのが自分の稽古だと思っているので、ガッチリ締められるのがダメだなんて思いません。

というより軽く抱かれて、それを外すことにどんな意味があるのでしょうか。



私は他流出身なので、白帯で基本技の稽古しているときに「そんなに強く掴むな」と有段者から言われたことは何度かあります。ただそのときの理由の多くは、「掴まれてしまったら、本来は終わり。マズイ状態だけれども、そこから動かす練習をしているので、いま思いっきりはやめてくれ」というものでした。


これは納得できます。何段だろうが、誰にでも通用する技の方法なんてないのです。体格差や柔らかさなど、相手によって何かしら変える必要があるし、その対応できる広さが技量の向上につながると私は考えています。





なにより誰がそう言ったのかが重要


「動けないように掴むのは間違い」が、自分の道場ではとか、うちの流派ではと限定するならともかく、「合気道は」とご自分が合気道全体を代表し守護しているかのような言い方です。


じゃあそれは、どなたがおっしゃったのでしょうか?

開祖がおっしゃったのでしょうか?

何か根拠はありますか。


匿名の誰かが言っただけなら、個人の願望です。

個人の経験や願望なら、それで安易に全体をくくってしまい、断定的に公に出してしまうのは、あまりにも幼児的です。



もちろん合気道はどんどん多様化しているし、時代に合わせて変化しているので、それぞれの流派や道場がどうあっていいと思います。


ともあれ、この合気道の用語シリーズでは、開祖の直弟子の方々の言葉をできるだけ探し、そこから開祖がおやりになっていた方法や意図を探るのが趣旨です。

今回も同様です。


もし何十年もの伝言ゲーム、あるいはどなたかの独自解釈で、「合気道は争わない」だから「動けないように掴まない」をセットにする風潮が広がっているとしたら、どこからそうなったのかを知っておくことは大切だと思います。

ウィキペディアであれば[要出典]となるはずです。


知らないのに「合気道は」と言うのは、妄想です。


開祖の直弟子の先生方は、どうおっしゃったのでしょうか。

見ていきます。




固い稽古とは岩間スタイルの言葉?


植芝盛平と合気道』の斉藤守弘先生のインタビューには、こうあります。

斉藤守弘先生は言うまでもなく、岩間で植芝盛平先生に仕えられました。それも23年間というのですから最長だと思われますし、晩年までの合気道完成期を開祖と濃密に稽古されたと考えられます。


大先生の口癖は、「わしは、固い稽古を六十年やったから、今がある。おまえらに何ができるか」でした。
ところが「固い」と「柔らかい」の意味が分からない人達が多いのですね。「固い」っていうのはビシッとして動きは柔らかく、まろやかにやればいいんだ。それを、コチコチにやってしまうんだ。また、柔らかいというと、ヘネヘナになっちゃう。柔らかい動きに、最高の気が充実してなくちゃいけないんだよ。

これを読むと「固い稽古」は、開祖の言葉なんですね。


しかし六十年を額面通りに受け取ると、開祖は87歳でお亡くなりになっていますので、ほぼずっと固い稽古をされていたということになります。

冗談みたいですが、以前にも書いていますが植芝盛平 合気道の王座』に収録されている映画は77歳のときのものだそうですから、あながち冗談ではないかもしれません。


開祖は、年齢を把握しながら映像を見ると、一般的に思われている印象より、かなり高齢になっても激しい稽古をされているのです。




流れの稽古の何が問題なのか


続 植芝盛平と合気道』では、斉藤守弘先生がこう答えられています。

合気ニュース)気の流れから始まるとどういう問題が出てきますか。
気の流れから始めると、よほどうまくやらない限り、タイミングが狂ったら動けなくなります。たとえば掴まれたら動けなくなるとか、正しい技ができなくなるとか。とにかく気の流れが先行する
と、早い話が強くならないし、鍛えられないね。開祖がよく言っていた、「強くなりたかったら掴み技の稽古をたくさんやれ」と。掴まれても動けるようになってから、気の流れに入れば問題はない。
最初はきちっとした固い稽古から始まります。それから相手の動きに合わせて動く気の流れ。気の流れにもいろいろありますけどね。ゆっくりやったり、速くやったり、自由にできます。最後はそうなっていくんだからね、この稽古はやらなくちゃいけない。だけど気の流れに入る前にやらなくちゃならないことがたくさんあるわけです。気の流れの稽古は最後にやるということ。

ここでは流れの稽古ではなく「気の流れ」になっていますが、ほぼ同じことでしょう。

気の流れになると、概念的には誘いというニュアンスが出てくると思いますが、要するに捕まってしまったらどうするのか、というところがないのです。

がっしり掴まれてしまっても、それなりに崩せる技量の裏づけがないのに、受が合わせる稽古だけしていても意味がないのではと思います。


斉藤守弘先生がおっしゃっている「最後はそうなる」は、究極の目標。植芝盛平先生のような気の流れで、相手を投げることができた方はいらっしゃるでしょうか。

あー、いそうですが、もちろん相手が協力してくれなくてもですよ(笑) 


投げた話ではありませんが、植芝盛平先生は空手や剣道のプロの間合いを外して打てなくすることだっておやりになっています。気の流れから制圧できるなら、こんなことは朝飯前ですよねってことです。そのエピソードは「合気道の間合いって何? のちょっと深い話へ




『武道家のこたえ』に斉藤守弘先生と植芝吉祥丸先生が


空手家の柳川昌弘先生のインタビュー集『武道家のこたえ』は、空手、柔道、合気道、大東流の達人・名人と呼ばれる先生方へのアンケートのほか、なぜだか斉藤守弘先生と植芝吉祥丸先生おふたりへのインタビューがメインになっています。


表紙からして、おふたりがメインです。



序文では「両先生の技術の伝承ないし普及に対する想いの違い、身につけた技術への価値観の違い」は「合気道のみならず現代武道全般にわたって重大な示唆を与えていると信じる」とあります。


そして斉藤守弘先生のインタビューを読むと、海外から「岩間スタイル」と呼ばれ、合気会本部の稽古方法とを区別されるようになったことが理解できます。



単純化するなら、固い稽古とは岩間スタイル(現在の岩間神信合氣修練会のスタイル)を指し、流れの稽古とは合気会に代表されるスタイルだと言えるかと思います。代表されるとは、後述しますが心身統一合氣道は、合気会以上に流れるような稽古が主体になっているのではと思われます。

また逆に、合気会の中でも岩間スタイルでやっているところもあるので、スパッと綺麗に線引きができるわけではありませんが。



武道家のこたえ』の斉藤守弘先生のインタビューから引用します。


私共はやっぱりまず固い技を基本にしまして、それから流れるような技になってから触らせないうちに倒すというような段階的なやり方です。流れるような技は三段以上であって、ですから初めは固い技の稽古ばかりやらされたんですが、今東京では流れる稽古が主体になっている。
東京では力を入れると叱られるんです。そこが違うんです。しっかり持ちなさいって、掴み技でもしっかり持ってやるように教えられたんですね。

さらに、合気道の剣杖の話題から、


しかし開祖はここでは全部こうした基本から教えてくれたけど、東京では教えなかった。
柳川)そこには何か目的のようなものがあったんでしょうか?
いや違うんです。もう怒っていたんです。
開祖がきちんと稽古しなさいと言っても流れるような稽古ばかりするからです。開祖がそれを言って叱ると、わずらわしいから、電話をかけてきて「斉藤さん、何か用事ができたといって(開祖を)呼び戻してくれ」と言うほどで。 大先生が居ると「わずらわしいじいさんが来た」ってね。
だから開祖はとうとう気持ちがビシャッとしまって、もう教えなくなっちゃったんです。
柳川)「敬して遠ざけられた」んですね。
ですからここに帰るとね、地団駄踏んで怒鳴るんです。 「なっとらん」ってね。

東京の合気会本部で、開祖が「わずらわしいじいさん」扱いされていたとは、にわかに信じられませんが、『武道家のこたえ』では、斉藤守弘先生のインタビュー、植芝吉祥丸先生のインタビューに続き、柳川昌弘先生ご自身が書かれた「和道流武道空手と創始者・大塚博紀名人」と続きます。



そこには大塚博紀先生が柳川先生に「和道流空手道(武道空手)の次世代への伝承をあきらめた」と語られていたことが明かされています。

それはつまり植芝盛平開祖が、「わずらわしいじいさん」扱いされていたのと同じような風潮があったことを示唆されています。


ああ、それで序文に「合気道のみならず現代武道全般にわたって重大な示唆を与えていると信じる」と書かれていたのかと、柳川先生がこの書籍をお作りになった意図を理解しました。


しかし、斉藤守弘先生のおっしゃっていることが正確だとして、じゃあ誰が合気会本部の稽古方法を変えていったのでしょうか。

この本の植芝吉祥丸先生のインタビューでは、そのあたりのことに触れられていません。




大半の合気道関係者が信じた開祖の「昇華・変貌」


戦後合気道群雄伝』という本があります。

著者は加来耕三氏。専門分野は、歴史心理学、歴史哲学を応用した人物評伝の執筆・研究。そして時代考証。『戦後合気道群雄伝』によると、古流剣術「東軍流」17代宗家。タイ捨流剣法免許皆伝。2008年の出版時、合気道四段で合気会の方です。



戦後合気道群雄伝』から、分かりやすいように順序を入れ替えて引用します。


「晩年に近づくにつれ、完成されてきた父の技法」
と植芝吉祥丸は、さらりと語った。
「何ら口を挟むべきものはありませんでした」
とも。生前、くり返し二代道主は、合気道の技法の完成を、開祖盛平の「昇華・変貌」に求め、 その価値を代弁した。多くの門人がこれを信じ、一部の高弟は、「あんなものは、わしの学んだ合気道ではない」と愚痴った。
これまでも盛平の技は、時代によって変化をとげてきた。それゆえ、晩年の技法の賛否は別として、技法の変化そのものについて、大半の合気道関係者は、その根本を開祖の手によるものと無条件で受け止めた。筆者もこの論旨に、うかうかと乗せられてきた一人である。
恥をしのんで、『合気道探求』(創刊第一号·平成三年一月十二日号)に掲載された、拙稿「合気道の生い立ち 必殺の武術から愛の武道へ」を一部抜粋したい。
拙稿の趣旨は、「無敵の強さを生涯保持した植芝盛平と、現在のたよりな気にみえる合気道は、一つの技としてつながらなかった」ので、その真相を知りたく、関係者への取材をこころみたことを述べたもの。(中略)  
では、この技法の再編をなし、合気道が公開される前夜に完成させたのは誰であったのだろうか。 公開そのものを考えたこともなかった盛平にのみ、答えを求めるのはいかがなものであろうか。 筆者はこの頃になって、開祖をたてつつ、極力目立つことを避けた、二代道主 植芝吉祥丸が、真に偉大な武道家であったことを痛切に感じている。
筆者は断言する。
今日の合気道を構築したのは、植芝吉祥丸である、と。 

著者をはじめ、大半の合気道関係者が「開祖の昇華・変貌によるもの」と無条件に受け止めた技法は、「無敵の強さを生涯保持した植芝盛平と、現在のたよりな気にみえる合気道は、一つの技としてつながらなかった」ので、その真相を取材した。


(中略)にしたところでは、著者自身も1991年、合気会の出版物『合気道探求』の創刊第一号に書いた原稿では、“日本武道の伝統である和の精神を、「武道は愛である」とさらなる境地に高めた、盛平の心の転換であったろう”と完全に「開祖の昇華・変貌」を信じ、それを広報されていた。


ところが、少なくとも『戦後合気道群雄伝』が出版された2008年の時点では、現在の合気道技法は植芝吉祥丸二代目道主が再編されたものだと断言されているのです。


さらに引用します。


吉祥丸は生前、常にそうであったが、自らが率先してやったこと、その成果が明らかに出たものであればあるほど、これの存在を煙のように消す、困った習性をもっていた。
話が核心にふれると、とぼけてしまうのである。
筆者は戦後合気道の、この時期に最も大きな関心を寄せてきた。
一言でいえば、この世界に発展する前夜、一般公開を前にしたこの頃、合気道の技法は一変している。 誰が、どのような意図で合気道の骨格をかえてしまったのか、筆者ならずとも、武術・武道に関心ある方は、最も知りたいと念じてきたのではあるまいか。(中略) 

一般公開とは、1956年に日本橋高島屋の屋上で行われた演武会のことだと思われます。

それまでに、いわゆる一般公開される演武会は皆無だと思います。

塩田剛三先生が優勝されたライフ・エクステンション主催の「日本総合古武道大会」は、1954年ですから、いずれにせよ大勢の目に触れたのは1950年代。


また有力な紹介者を必要とした入門も、かなり長い間続いたはずです。さまざまな書籍で、合気会になる前の弟子は、軍人が多く、講道館から派遣された高段者のほかは、柔道剣道など武道の有段者などで、とても誰でも入門できる道場ではなかったはずです。


併せて、教え方についても、戦前・戦中の開祖盛平のやり方を改めて検討・反省しなければならなかった。が、その根本である合気道の技法を一変させたことについて、ついぞ筆者は断言的な吉祥丸の答えを聞くことができなかった。
が、そのヒントは次の言葉の中に隠されていた。
父が知れば、恐らく烈火のごとく怒ったでしょうが、私は父の教授法を充分に理解していたつもりです。 しかし私なりに疑問も抱いていました。
動機は単純です。 父が合気道を創始して以来、数多くの門人を教えながら、十年、二十年と父の許にありつづけた門人が、極めて少ないということでした。
これはどういうことなのか。疑いを合気道の技法そのものに向けてみましたが、父の理念技法の巧さには決して問題はなかったと思います。
父の技は歳月とともに進化し、固く厳しい技から、柔らかく優しさのあるものへと昇華・変貌を遂げてきました。
もの心つく頃より、父の技を見てきた私にとっては、晩年に近づくにつれ、完成されてきた父の技法に、何ら口を挟むべきものはありませんでした。 父と子の立場を離れても、 素晴らしい境地に立ったものだと、心底、 武道の先人として父を尊敬しております。 問題は別のところにありました。


問題は別のところにありました。
「大先生は富士山だ。遠くから見ると雄大で美しいが、近くによると険しくて登りきれない」 そう語っていた戦前の内弟子がいました。
実際、若松町の「皇武館」時代を思い浮かべてみても、父は弟子を育てるというタイプの人ではなく、天才的な閃きで有無をいわさず猛進していく感じでしたから、近くにいればいるほど、父とのコミュニケーションをとるのは大変でした。
合気道修行者ですから、父の素晴らしい合気の魅力に惹かれて入門し、内弟子となった方も、日々の生活の中では父に手を取って教えてもらうことも非常に少なく、技の解説を聞くこともほとんどなかったと思います。見て覚えろの旧式伝授法です。その上、理由もなく閃きで行動する父は、自分と同じ成果を弟子に求めることも多くありました。
これでは、仕えていてもつづくはずがありません。しかも、一番大切な点ですが、いかに合気道を極めても、それでは生活の足しにならないということがわかってきました。

引用した前段と後段を入れ替えましたが、要するに技法としては、植芝盛平先生のやられていた方法と、二代目道主が作られた合気会の方法とは、乖離があるということでしょう。

著者の言葉では、「無敵の強さを生涯保持した植芝盛平と、現在のたよりな気にみえる合気道は、一つの技としてつながらなかった」です。




植芝盛平先生は、具体的に教えようとしなかった。今日やった技と明日では全然ちがう、というのも多くの方々が書かれています。

要するに定まった型はなかったと。だから開祖に続く先生方は型を作り、見て覚えろの旧式伝授法から覚えやすい手がかりを作られた。植芝吉祥丸先生だけではありません。


型がなかったところに、合気会では植芝吉祥丸先生が型をお作りになり、養神館では塩田剛三先生がお作りになった。そして心身統一合気道では藤平光一先生がお作りになり、富木流は富木謙治先生が。そのほかの合気道流派も同様です。




型がなかったところに型を作るとどうなるか


植芝盛平先生の教授方法がどうだったのか。開祖70代の様子を、合気会田辺道場長の五味田聖二先生が合気ニュースのインタビューに答えられています。


用語「当身」でも引用させていただきましたが、植芝盛平先生は70代でも「入身投げでも天地投げでも、 全部ここ(顎のところ)にくるんですよ。だから受けが飛んでしまうんですね」ということですから、一般的な印象とはかなりちがうのです。


引用します。


大先生が来られると、みんなの前で技をされるでしょ。それで、今度はみんなでする。質問したいのですが、聞きに行くと、「わからんか? そうか!」 と言われて、別の技をされるんですよ。ほんまに聞きにくうて(笑)。
逆に聞きに行かないと、 座り技の一教だったら一教ばっかりやらされるんです(笑)。 四方投げだったら四方投げばっかりとか(笑)。もう、そんなんばっかりだったです。
それで、これを覚えておきなさいと言われて、大先生は田辺を去られる。
3、4ヶ月くらい経って大先生が来られたとき、その技をやっていると、「爺は、そんなことを教えていない」と言われるんですよ(笑)。
合気ニュース)ぜんぜん違うんですか。
違うんです。四方投げでも全部同じなんですけど、 今日やった技と、明日やるのは、技が変わってなかったら進歩がないと、よく大先生に言われたんですよ。だから先輩たちは 大先生の言葉を理解するのに苦しんでいました。

どれだけ偏屈な爺さんだと思ってしまいますが、塩田剛三先生によると開祖は「覚えて忘れろ」とおっしゃっていたそうですから、これが「武産合気」ということだと思います。


簡単にいうと型稽古をしているけれども、本来型はない。どうにでも技を産み出し、変化するのが合気道だということでしょうか。




養神館では構えるのに塩田剛三先生は構えない?


養神館のすべての技は構えます。技以前の基本として、構えがあります。

あれ、確か植芝盛平先生は「構えると何をするのか分かってしまう。構えるな」とおっしゃっていたのでは?と思いますよね。


実際、塩田剛三先生の演武を見ると多くの場合、無構えです。

塩田剛三先生は、『極意要談』でこうおっしゃっています。


植芝先生は呼吸力呼吸力と言っておられたんですが、これは結局私が分解したところによりますと、集中力即ち中心線の力。これはあらゆるスポーツに通じると思うんですけど、中心線の強さ、ぶれないということ、これがやっぱり大事ですね。
これが難しいことで、ぶれないようにしようとするとぶれるんですね。だから、それが自然に行なわれるように自分の足腰を鍛え上げて作り上げていく。それが出来れば、どんな格好をしても構わない訳なんです。

つまり養神館の構えは、ファイティングポーズではありません。

塩田剛三先生は、呼吸力の源は中心線の力、養神館で言うところの「中心力」だと判断され、それを揺るぎないものにするために、中心線を意識し鍛錬するために構えを取り入れられた。

そして揺るぎないものになれば、どんな格好をしていてもいい。必要なときにピシッと中心力が発揮できればいいと考えられたのだと思います。


そんな発想をベースに型をお作りになれば、植芝盛平先生がおやりになっていたことと乖離があっても当然です。




植芝吉祥丸先生は何をどう変えられたのか?


先に引用した『戦後合気道群雄伝』の植芝吉祥丸先生の言葉からも明らかのように、合気道を普及させ、組織としてやっていくには教授方法から何から変えることが必要だと、強く考えられていたのは間違いなさそうです。


ただそこで問題なのは、変えられたのがご自分ではなく、「開祖の昇華・変貌」だとする、いわば誤解をそのままにされたところでしょうか。


時代考証の専門家でもある『戦後合気道群雄伝』著者の加来耕三氏によれば、「吉祥丸は生前、常にそうであったが、自らが率先してやったこと、その成果が明らかに出たものであればあるほど、これの存在を煙のように消す、困った習性をもっていた」ということですから、積極的に消されたということだと思います。



では、何をどう変えられたのか。


私が持っている古い本は、昭和45年発行平成9年改訂版の『精説 合気道教範』ですが、少なくともここで「変えられたな」と思われる技法は、ほぼありません。


例えば、「左こぶしで相手の右あばらを突く」とか「手で顔面に一撃」「左こぶしで相手の鳩尾を制しつつ」など、当身も多数出てきます。



私が唯一、変えられた思ったのは、基礎の技として書かれている腕抑え(第一教)の表技。「両手刀で打ってくる相手の右腕を制して」とあります。つまり受が正面を打つことから始まります。

岩間スタイルでは、逆に取りから打っていきます。養神館も同様です。



本題ではないので簡単にしか書きませんが、開祖初の技術書『武道』には「我より進めて攻撃すること」と書いてあります。

もう少し詳しくは、こちらを読んでください。



実際の稽古ではどうでしょうか。

あくまで私が経験した合気会の稽古ではですが、座り技の正面打ち一教表で、受は打ってはいませんでした。受は、ただ手を上げていただけでした。打つと上げるとでは、まったく違います。


ところが、これも私が経験した範囲ではですが、心身統一合気道の正面打ち一教入身の稽古では、明確に受から正面を打ってきました。




氣で導くと流れの稽古の関係


調べると藤平光一先生は、植芝盛平先生がお亡くなりになる直前に、唯一の十段を授けられています。開祖がお亡くなりになったのは1969年。藤平光一先生が、氣の研究会を説明されたのは1971年。ですので、少なくとも1969年までは合気会に所属し、師範部長だったはずです。


吉祥丸先生が二代目道主を継承されたのは、開祖がお亡くなりになった年です。

それまでに、植芝吉祥丸先生と藤平光一先生の技がそれほど違っているとは考えにくいはずです。


その後、藤平光一先生は心身統一合氣道会を立ち上げられ、技の体系をお作りになったと思います。思いますというのは、心身統一合氣道の技の解説をした書籍や映像は、ほぼありません。

私はかつて一冊だけ、五つ程度の技が載っている本を持っていましたが、これもイメージの説明しかありませんでした。



藤平光一先生がお作りになった、心身統一合氣道の技の体系がどんなものだったか、私の経験上では、かなり合気会と似ています。

心身統一合氣道と合気会両方の経験者は、一様に「似ている」と言います。


心身統一合氣道では「氣で導く」とか「氣で導いて、体を導く」と言って、何より氣を重視します。

例えば片手取りの稽古の前に、受が取りに来るのを、円転しながら導いて行きます。取りは掴まれないように転換していくのです。


また後ろ両手取りの技では、受は走り込んできて右手なら右手を掴み、そのまま後ろを回って左手を掴みにきます。ですから、がっちり掴まれるなんてことはありません。


流れの稽古の元は、これらの稽古方法ではないかと思われます。



こういう稽古方法は心身統一合氣道独自のものかと思ったら、合気会でもやっているところはやっています。

推測が正しいとしたら、流れの稽古という言葉を使ったかどうか別ですが、影響が大きいのは藤平光一先生だったのかもしれません。


現在の合気会でも、斉藤守弘先生の指導を受けた「岩間スタイル」で稽古している団体があるように、師範部長だった藤平光一先生の技法の影響の大きな流れもあるはずです。



もちろん流れるような、導くような動きは、開祖の晩年の動画で数多く見ることができますので、開祖が元になっていることは間違い無いでしょう。

ただこれは、いわば演武。

基本技と自由技とに二分するなら、自由技です。“流れでしか”稽古しないのであれば、それは自由技しかやっていないと言えるでしょう。



あとで引用させていただく小林保雄先生は『植芝盛平と合気道』で、「藤平先生は段階的な教え方で、人気があった」とおっしゃっています。ですので、藤平光一先生が流れのような稽古だけをされていたとも考えにくいのです。




争わざるの理はどなたが言われたのか


「争わざるの理」という言葉で説明されているのは、藤平光一先生です。

著書『氣の呼吸法』には「争わざるの理」の章があります。内容は自己啓発書的なものですが、武道に関係するところを引用します。


古の兵法に、勝利に三通りある、と述べています。
一、争って勝つは、勝の下なり、
二、勝って争うは、勝の中なり、
三、争わずして勝つは、勝の上なり、と。
「争って勝つ」は、世間一般の勝ち方で、これは、一番下の勝です。 「勝って争う」というのは、争う前に完全に勝つ条件を完備してから争うので、この方が安全な勝ですから、勝の中です。
最上の勝は、「争わずして勝つ」のですから、争わないのです。負けることはありません。一番安全な、絶対の勝です。
争わずして相手を心服させ、自分の思いどおりに導くことです。勝つとすれば、最上の勝でなければいけません。何も好んで最低の勝を求める必要はありません。

この三通りの勝ち方は、古の兵法ということで、藤平先生以外でもあちこちで使われているはずです。


そして植芝吉祥丸先生も、少し論を進めた内容で、ほぼ同様のことをおっしゃっていたようです。

戦後合気道群雄伝』から引用します。


生前、吉祥先は武術における勝ち方に四通りあることを語っていた。
一、相手を殺して勝つ。
二、相手を殺さず、最命傷をはずして生命だけは動け。ダメージを与えて勝つ。
三、相手を殺さず、怪我もさせずに生け捕る。
四、相手と争わずして屈服させる。
戦前の合気道はすべてを標撃し、戦後の合気道は四を目指しつつ、三の稽古をおこう武道となったことは明らかであった。
しかし、これはきわめて難しい。こちらに相手を殺したり、怪我させる気がなくとも、相手はその気でいるかもしれない。生け捕る高度な技法がなければ、こちらがやられてしまう。
合気道はこの至難の命題をこちらも相手も怪我せずに、相手の暴力だけを奪う技法に再編し、見事に答えを出した。

四の「相手と争わずして屈服させる」を目指したのは、間違いないでしょう。

それは、当然相手がどうかとは別なのです。こちらは殺したり怪我させる気がないから、相手も殺したり怪我させる気がないのが正しいと言い出したら、悪い冗談か宗教的な信仰にしかなりません。


それでも『精説 合気道教範』に出てくる技法は、植芝盛平先生による具体的な技の解説がほぼなかったところから、ここまでお作りになられたのなら驚異的です。

著者が「見事に答えを出した」と書きたくなるのも納得です。



が、しかし、それはどういう稽古方法かによるはずです。どんな優れた武術の技法だって、それが使えるかどうかは個人のメンタル、稽古の方法と環境次第ではないでしょうか。


もっとも分かりやすいのは、当身。『精説 合気道教範』には当身が数多く出てきます。

しかし、当身を、動く相手に当てることができるのか。当てて、効かせることができるのか。効かせても、相手は怪我をしないか。また逆に自分の拳なら拳は大丈夫なのかは、まったく別問題です。


現在、実際には当身すら使われていないのなら、遠いはずです。




自由技はいつから生まれたのか


子供の頃から柔道をやり、高校生のときに合気道に入門。以降、合気会本部道場で内弟子同然の生活をされ、大学卒業時には本部道場指導員になられていた小林保雄師範。

小林保雄先生が入門されたとき、開祖は70歳ぐらいだったということです。


その小林保雄先生が『開祖の横顔』で、インタビューに答えられています。

引用します。


ー合気道の演武でよくやる自由技は、当時からあったのですか?
いいえ、あれは審査の制度が出来てから行われるようになったものです。会員が増えてきた頃から昇級昇段に審査制度が設けられるようになったのですが、その時は内弟子が受を取ることになっていました。しかし内弟子といっても5人くらいしかいませんから、人数が多くなるととても相手がしきれなくなってしまい、審査を受ける者同士が受と捕をやらざるを得なくなったのです。そこで自由技が審査項目に加えられるようになったのです。
ーそうだったんですか。
演武会も私が入門した頃から行うようになったのですが、演武の際に基本技だけでは面白くないということで、色々と考えた結果、呼吸投げを見せることにしたのです。呼吸投げはそれまでは道場ではあまりやっていませんでした。
ーなぜだったのでしょう?
大先生はあまり呼吸投げは気に入らなかったのです。「そんなに簡単に人を投げ飛ばせてたまるか」というお考えでしたから。ただ鍛練としては優れているので取り入れるようになったのです。
合気投げも同様で、自由技が行われるようになった背景には、そのようなこともあったのです。

日本橋高島屋の屋上で行われた、初めての一般公開演武は1956年。

第二次世界大戦の終結は、1945年。

つまり単純に言えば、自由技は戦後10年以上経ってから、演武会用に生まれたものだということです。


確かに演武では地味な技だけだとつまらない。派手な技も入れないとね、と私も思います(笑)

だけど、そんな演武会用の技ばかり稽古しているとしたら、やはり開祖のお考えとは、かなりかけ離れていると言えるでしょう。


続けて小林保雄先生は、腰投げも自分が知る限り行われていなかった。他の先生がおやりになっていて、広まったとおっしゃっています。




植芝吉祥丸先生は稽古方法をどう考えられていたか?


植芝盛平と合気道』に、植芝吉祥丸先生のインタビューがあります。

ここには開祖の指導方法と、ご自身の稽古に対するお考えが述べられています。

引用します。


合気ニュース)先程のお話に、晩年の大先生は、ご自分の動きをお弟子さんの前で見せられ、そしてお教え下さるというよりは、むしろお弟子さんのほうが先生の動きに引き付けられて合気道を学ばれたとございましたが、大先生のご教授法は最初からそうでしたか。
最初はやはりきちんと、いちいちビシッと教えていましたけれども、それ程何を作ろう、彼を作ろうと言うように執着した教え方じゃありませんでした。しかし、一点、一分一厘、間違えないように正確にやらないといけないという事を言っていました。
最近、技の鍛練でも、初心者がしっかりした確実な所を柔らかくし過ぎて、そのままスッと流す人がいます。そういう事ではなく、やるからには、基本はびしっと叩き込んで、その動きの上でひとつの柔らかみを付けていかなくては、本来の強みではありません。最初からふわふわと、お豆腐か何かみたいにやったら一遍に潰れてしまうということです。
最初はしっかりした鍛練が必要なのです。しっかりした鍛練が必要でそれを積み重ねて行くうちに、だんだんそういった合気の柔らかい厚みというものが出来てくるのです。

植芝吉祥丸先生は「最初はしっかりした鍛錬が必要」を繰り返され、「その積み重ねが合気の柔らかい厚みになる」ということですから、強く掴むなとかはおっしゃっていませんし、むしろ柔らかくしすぎることの問題を指摘されています。


「最初はしっかりした鍛錬」の先に「その積み重ねが合気の柔らかい厚みになる」と言うことですから、程度の差はあると思いますが、斉藤守弘先生のおっしゃる「固い稽古」から「三段以上で流れの稽古」と順番は同じです。

「最初からふわふわと」をずっと続けるのが合気道だ、なんてことではありません。



少なくとも、植芝盛平先生はもちろん、植芝吉祥丸先生や塩田剛三先生が存命中の時代には、どこにも存在していなかったのでは思います。

あるとすれば、その後の時代に、初心者向けの方便から一般化した道場や団体が出てきたのではないでしょうか。好意的に解釈しても、それはミュージカルの練習みたいですね。



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現代において、特に合気道では強い弱いを問わなくてもいいし、現実問題として合気道に絶対的な強さはないと個人的には思います。

合気道を稽古する理由は、健康に役立つ運動習慣だから、ストレス解消になるから、カッコ良く投げたいから、袴を穿きたいから、稽古の後のビールがうまいから、でもなんでもいいと思います。


ただ流れでしか稽古しないのであれば、少なくとも植芝盛平先生のお考えとは、ほぼ真逆の方向に進んでいる。本来の合気道とは言えず、かなり変容した別ものだと理解しておいた方がいいかと思います。





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