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合気道の間合いって何? のちょっと深い話へ


今回も、合気道の用語。直弟子の先生方の文章を中心に紹介することで、先生あるいは流派ごとの解釈を多角的に知り、理解の的確なヒントになることを目指します。


今回は、『間合い』です。


「間合い」はよく使われていると思いますが、その意味するところは、合気道の書籍などで詳しく書かれていることは、ほとんどないといっていいでしょう。

塩田剛三先生の言葉ではありませんが、養神館から見ていきます。




型稽古としての間合い


養神館 合気道入門』から引用します。


間合とは、簡単に言うと相手との距離のことです。 間合いが近ければ攻めやすく守りにくくなり、遠ければ守りやすいが攻めにくくなります。状況に応じて最適な間合をとることが大切です。
合気道では<1対1><徒手対徒手>の場合、 お互いに手・足を伸ばしても届かない距離、約1.8メートルを構えたときの間合としています。

書かれていることは、古い書籍や会報誌、比較的最近のものでも、言葉づかいはともかく内容は変わっていません。

徒手対徒手で1対1の距離なら約1.8メートルなのは、型稽古を行うときの距離です。

状況に応じて最適な間合は変化することが書かれていますが、技の動き中では、当然適切な間合いも位置取りも変わります。そこを文章で明示するのは、かなり困難だと思われます。




では徒手対徒手で1対1ではない場合、剣対徒手なら、どうすべきでしょう。

合気道は徒手がメインですが、武器取り、武器対武器もあります。


私はYouTubeにアップした[現実的には取れないけど、それでも剣取りを稽古する理由]の中で説明していますが、合気道で行われている剣取り・太刀取りの多くは、あり得ない間合いで行われていることが多いと思っています。合気道に限らず、ですが。

その位置から始めるなんて、すでに死に体。ちょっと突かれたり、少し剣先を動かされるだけで斬られてしまう。剣を強く振る必要はなく、片手を伸ばすだけで指などが斬られてしまいます。


現実的に剣を取れないと思いながらもやっているのは、体捌きの精度を上げたり、間合いやタイミングの感覚を養うなど、徒手対徒手よりもはるかに緊張感のある稽古ができる。メリットは大きいと考えているのです。

現実的な設定ではないなら、せめて理合はしっかりやりましょうよと思うのですが。



では剣対徒手の場合、途中の変化はともかく、どんな間合いから始めるのが適切でしょうか。




対人的基本技術としての間合いの理


断然、間合いについて書かれているのは、合気道競技を行う富木流の書籍です。


植芝盛平先生の高弟で、合気道競技を作られた富木謙治先生の書籍は持っていませんが、志々田文明先生と成山哲郎先生 共著の『合気道教室』から引用します。

相手の攻撃を無効にし、勝つことができるいわば極意が「間合いの理」であるとされています。基本の間合いを「一足一刀の間合い」として、徒手の場合、剣を持った場合などで変化するものとして、かなり詳しく書かれています。



間合いとは、 相手と自分とが相対したときの, 位置(方向)と距離との関係(空間関係)をいいます。
間, あるいは間合いは、昔から剣術の世界などで独特な意味で使用されてきました。その意味内容は多様で、上に述べた空間的な関係のほかに、時間的な関係、心や気の虚実関係などが語られてきました。
一般の合気道解説書には, 間合いについての解説をほとんどみかけることができません。 これは, 受(攻撃側)の動作が, たとえば「正面打ち」というふうに約束されているため、間合いの理が取の技のなかにセットされているからです。したがって技を学べば、その技の間合いを学べるので解説が省かれていると思われます。しかし、剣道のように, 約束されない攻撃にも対処できるように向上していくためには、この理の理解が大いに役だつことと思われます。

距離だけではなく、時間や虚実まで語られています。

そして間合いについての解説がほとんどないのは、型稽古で攻撃方法の動作が約束されているため、間合いも学べるためではないかと、控えめにお書きになっています。


合気道に限らずあらゆる武道の型稽古は、同程度の身長で同程度の速度で動くことを前提に作られているはずです。

しかし、もちろん現実はそうではありません。

私はある合同稽古で2m近い外国人と組み、片手持ち四方投げを行ったことがありますが、型通りに行くわけがありません。最初に手首を極めるんだろうかと思ってやってみたら、相手がつま先立ちになるどころか、重みがこちらの腕に掛かってきて極めるどこではありませんでした。



「剣道のように、約束されない攻撃」とありますが、剣道の有効な攻撃方法は決まっています。この場合はフェイントやタイミングなどの要素と考えていいと思います。つまり間合いは、距離だけではなく、時間であり、虚実も含めなければ役に立たないということです。

合気道の中では、短刀を使った試合のある富木流でなければ、なかなか出てこない。というか、型稽古だけで試合がなければ不要になり、忘れられてしまうのが当然かもしれません。



「合気道の用語」は今回が2回目ですが、最初に書いているように「直弟子の先生方の文章を中心に紹介することで、先生あるいは流派ごとの解釈を多角的に知り、理解の的確なヒントになる」ことを目指しています。


その趣旨からすれば、富木謙治先生が合気道の競技化を提案しても、植芝盛平先生は決して許さなかったことも書いておく必要はあると思います。


しかし、開祖の直弟子の方々で、「合気道が初めてやる武道」という人はなかなかいません。書籍等で明確に確認できるのはゼロ。私が、もしかしたら初めてかもと思えるのは、剣舞を習うつもりで間違って皇武館(合気会本部の前身)に行ってしまった、国越孝子さんおひとりです。この方は、塩田剛三先生とほぼ同時期の入門で『武道練習』の挿絵を描かれた方です。


ともかく、ほぼすべての直弟子は剣道や柔道、あるいは他の武道の経験があるのです。剣道や柔道をやっていれば、やることが違っても、虚実や時間軸の間などは理解しているというか、染み付いていてもおかしくありません。

その武道として当然の間合いのところが、今のほとんどの合気道から抜け落ちているとしたら、重大な欠陥ではないでしょうか。





手を持たれることは間合いとして終わり


至誠館の第2代館長であった稲葉稔先生が、『極意要談』の中で間合いについて語られています。

稲葉先生は、開祖の直弟子ではないものの合気会で山口清吾師範に入門。その後、今武蔵と呼ばれた國井善弥師範の鹿島神流に入門されています。詳しくはないですが至誠館の合気道は、鹿島神流の剣術とセットで学ぶのだと思います。


引用します。


柔道は組まれる、合気道は相手に持たれる - これは間合いとしては終わりの部分ですよね。 間合いに鈍感になったら武術として成り立たない。本来は相手の動きを察知して動かなければなりません。
今は銃の時代です。 アメリカなどでは女性が護身用にピストルを所持する状態になっています。 ビストルの間合いは一体どれ位なのか、散弾銃では、ライフルではどうか。銃と相対するならそういう撃たれる間が計れなければいけないわけです。そうした間合いを計るにはどうしたらいいか、といったときに、基礎として、持たれたらこうする、組まれたらこうするという術があるのです。

これはちょっと驚きました。

持たれるということは間合いとしては終わり。間合いとしてだけではなく、攻防としてもかなり終わりの部分。意図的に誘導して持たせたのならいいですが、持たれてしまったら致命的に不利な状況です。

型稽古の中では、いくら持たせるといっても、相手が手首を持ってから何かする設定で作られていません。しかし腕を掴みつつ殴ってくるなどの行為を想定しないと、技としては無意味だと思います。


私はそう思うのですが、稲葉先生は「間合いを計るにはどうしたらいいか、といったときに、基礎として、持たれたらこうする、組まれたらこうするという術があるのです」とおっしゃっています。


さらに引用します。


そこから出発して、相手との間合いを取っていくと、相手の顔色や応対の仕方で、相手の動きを察知することが出来るようになります。 相手の考えを読むということは、もう目に見えない間合いです。 最初から目に見えない間合いの話をしても分かりませんから、具体的に一番近い間合いから実感的に感性を磨いていく。今の武術はそうしたことの実践応用の基礎になっているということで私は理解しています。これをやればすむというのではなくて、基礎教養になっているわけです。

持たれたらこうする、組まれたらこうするという術から出発して、相手の動きを察知することが出来るようになる。それが基礎教養なのだとおっしゃっています。

間合いに敏感であることは当然として、持たれたとき組まれたときにどうするという術が、武器に対しての間合いの基礎になるのかどうか。


この文章を読むまでそんな視点はまったくありませんでしたが、もしかしたらという気になってきます。

手を持たれた胸を持たれたという距離なら、相手の殴る蹴るがいくらでも届く間合いなので、死角に入る必要がある。あるいは出せないように瞬間的に崩す必要がある。そのことが最も間合いに敏感になれる稽古法かもしれないと思えてきました。




開祖には間合いを外すという概念は無縁なのか


最後に開祖はどうされていたかというエピソードを2つ、ご紹介します。

これらを読むと、開祖は間合いを考慮されず、それこそ気を読んで拍子を外し続けることをされていたのではないかと思えてくるのです。もしかすると植芝盛平先生にとって、間合いなんて、何の意味も持たなかったのかもしれません。


植芝盛平と合気道』の西尾昭二先生のインタビューから抜粋します。



武徳会で空手の師範をやっていた先生で、小西先生の道場を預って技術指導していた袖山先生という人が、「いやあ、化け者みたいな人がいるよ。僕はあの人をとうとう突けなかった」と言うんです。 袖山先生でも突けない人がいるのかと言ったら、それが大先生だった。
袖山先生は終戦後引き揚げてきて、行くところがないので、小西先生のところに来たのです。そして合気会本部へ一度来てみたらということで連れていかれたのです。初めて大先生を見て、袖山先生が「合気なんてこんなお爺さんがやってたのか」と思ってニヤニヤ笑ってたら、大先生は「この空手の先生はオレをなめてるな」と感じたのでしょう。それで「わしを突けそうだなと思ってるんじゃろ」と言ったんです。だから先生も「ハイ」と答えたんですね。
大先生は「そうか、そうか」と言い、「突いてごらん、わしは歩いていくから、突けたら突いてごらん」と言って、道場を歩き始めたのです。先生は「人を馬鹿にしているなあ」とムカッときたわけです。むかい合っているならいいですが、「わしが歩いているからな」と言って、くるっと後を向いて歩き始めたんですからね(笑)。先生も「何だこのおやじは」ということで、パパッと出ていってツッと突こうとすると、「どうした?」と後を振り向くんですね。
どうしたと言ったって、こっちは突く格好で止まってるでしょ、アッと思った時にはもう間が開いちゃってるのです。それで「いけね」と思って、またツッと突こうとすると、 また「どうした?」と言ってね(笑)。
その時「大変な先生にぶつかってしまった」と思ったと袖山先生は言うのです。

これは突こうとするタイミングを外されている。前を向いて歩いていても、後ろから突こうとする気を読んで、寸前に振り向いて「どうした?」と枕をおさえられたとしか思えません。




さらに同様の話があります。

続 植芝盛平と合気道』の田村信喜先生ののインタビューから抜粋します。


ときどき本部道場にお見えになっていた居合の羽賀準一先生が、自分の先生は中山博道先生と大先生のお二人だけと言い切っておられました。(中略)
大先生のことを「いやぁ、ふつうの人にはわからんよ、田村くん。わからんのが当り前だよ。僕もやってみるまでインチキだと思っていたのだから」とおっしゃっていました。 私たちは、羽賀先生のお話で自分の先生の実力を再認識 したようなわけです。

羽賀準一先生のことは、Wikipediaを読んでください。凄まじいです。

引用を続けます。



羽賀先生は二十四〜五歳の頃、すでに剣道の日本選手権保持者で、その頃、皇宮警察の剣道師範をしておられた。よく合気会に遊びに来られ、大先生のところでご馳走になってましたが、若い自分をこんなにもてなすのはきっとインチキなんだろうと思っていたと言っておられました。 先生は韓国の警察に転勤になり、出かける前に大先生のバケの皮をはいでやろうと思われて試合を申し込まれたのです。
大先生はすぐお受けになった。二人で道場に出ると、大先生は羽賀先生に、「そこにある木刀をどれでもよいから持って打って来なさい」とおっしゃり、ご自分は道場の中をグルグル回って歩かれた。 先生は打とうとするが、どうしても打てなくて「参りました」と言ったそうです。「ああ、しまった! こんな先生だったのか。一年半も通ったのに、何も習っておかなかったと悔んだが、あとの祭だよ」と笑っておられました。

先ほどの空手の袖山先生のエピソード近いですが、植芝盛平先生が振り返った等の記述がないので、間合いを外し続けられたのかもしれません。しかし羽賀準一先生の打つ気を外された。それも気配を感じながら歩かれていたのは間違いなさそうです。




いずれにせよ、植芝盛平先生のような超人のようなことをやれた方は他にいないのですから、私たち凡人は間合い感覚を磨いていくしかないのです。





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