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合気道の力を抜くって? を具体的に探っていくと


今回も合気道の用語です。合気道ではどこの流派でも「力を抜け」と、頻繁に言われていると思います。じゃあ、実際にどうやって力を抜けばいいのか、具体的にどういう状態のことかを教えられることはあるでしょうか。


「力を抜く」ことは重要なはずですが、書籍では、ほぼ言葉だけか、観念的な説明に終始しています。いくら重要でも本人の体感の問題だから、自分で体得するしかないということだと思います。でもそれだと、あまりに手がかりがなさすぎて体得までに時間がかかりすぎます。

少しでも理解のヒントになればと、植芝盛平開祖の直弟子の先生方の言葉を探しました。




古の日本の柔術から延々と流れている発想


まず知っておいた方がいいのは、「力を抜く」のは合気道の専売特許ではないということ。このシリーズの趣旨とバッティングしますが、大東流合気柔術の師範が書かれた『古武術と身体』から引用します。

起倒流の伝書の文章と、その解説です。


ここで少し「天巻」を見てみる。 そこには「我力を捨て、敵の力を以て勝。 不然して吾力を頼み、我力を出す心あらば、勝利不全」と記し、その解釈を施している。それを意訳すれば、
敵を取り扱う起倒流の「気の扱い」というのはこのことで、力を出そうとせずに気を取り扱えば、敵は力が余ってひとりで倒れる。これは敵の力を利用して勝つものである。すなわち柔能く剛を制すとはこのことである。
人には、天から与えられた自然の力がある。これは譬えていえば、自分の身体の重みを自由に働き動かす力である。このような自分の身体を持ち扱う力はそのままあってもよい。それ以外に敵を取り廻そうという力を出す気持ちがあると、本体が抜けて、必定全勝は得がたく、あるいは勝つこともあるが、あるいは負けるのである。


(中略)
現在、大東流とか、合気道において、力を抜けとか、捨てよとかよくいわれている。また心身に気を充実させよなどということがしきりにいわれているが、それは大東流系統だけの口伝ではなく、まさに二百数十年前の起倒流の伝書にも同様なことは記されていたのである。

起倒流とは言うまでもなく、嘉納治五郎先生が学び、天神真楊流とともに講道館柔道の基盤となった柔術で、植芝盛平開祖も学んだとされています。

この起倒流の二百数十年前の伝書に書かれていることは、著者が書かれている通りで、概念的には現代の合気道で求められることと同じですから驚きます。


さらに続けて引用します。


ちなみに植芝盛平翁の弟子で、気の研究会を作られた藤平光一師範は盛平翁から得た最大のものはリラックスつまり力を抜くこと、それはまた気を出すこと、あるいは臍下の一点に気を鎮めることであったことをその著作に記している。とすれば、武術における心身のありかたの極意はどの流派においても同じようなものなのであるかもしれない。

まさに、です。ここで言うリラックスは、藤平先生がおつくりになった心身統一合気道で特徴的に使われる言葉です。藤平光一先生は心身統一の四大原則のひとつに「全身の力を完全に抜く」をあげられています。


前にも書きましたが「全身の力を完全に抜く」と立つことさえできません(笑) なので象徴的な言い方だと思いますが、藤平先生はリラックスすると氣が出る。力を入れると氣が止まるとされています。




力が抜けた状態と力を抜いた状態の違い


気とは何かは別の機会にまとめますが、リラックスと力の関係について、藤平光一先生はさまざまな著書でお書きになっています。

たぶん、もっとも詳しいのが『氣の威力』。この本から引用します。


神経の緊張は、人間を異常にしてしまう。
だから、医者はリラックスするように説く。いわれるまでもなく、現代人はリラックスの重要性を知っているはずなのに、多くの人たちにはそれがなかなかできない。どうしてだろうか。
第一の理由は、リラックスしている状態は、弱い状態である、という錯覚におちいっているからである。心の底でリラックスすると弱くなると思っているから、いざとなると、リラックスしていられなくなるのである。
リラックスは「力が抜けた」状態ではない。「力を抜いた」状態である。この二つはまったく異なる。「ルーズィング・パワー」、つまり「力が抜けた」状態とは、虚脱状態のことである。こんな状態が強いわけがない。
私は戦争から帰ってきたとき、戦地で苦労したのだから、ひと月ぐらい温泉に入って 体を休めたらどうか、といわれた。私はそれを断った。その翌日から、私は畑を耕した。気がゆるむことを恐れたからだ。氣がゆるんで虚脱状態になると、人は病氣になる。あとで聞くと、温泉へ行って気がゆるみ、自然に衰えて死んだ戦友が何人かいたが、私は病気一つしなかった。
カゼを引くのも、氣がゆるんだとき、「力が抜けた」ときである。それまで第一線でバリバリ活躍していた人が、引退して隠居をすると、急にボケたり、生氣がなくなったり、体が弱ってしまうのも、氣を出す目的を失い、虚脱状態になってしまうからだ。
「力を抜く」とは、そういう意味ではない。本当の意味の「ドゥ・ナッシング」ということであり、天地に任せきって何もしない状態、心身統一の状態のことである。これが本当のリラックスであり、じつは心身のいちばん強い状態なのである。

戦争から帰ってきた翌日から畑を耕したとは、合気苑でのこと。岩間の開祖の元で農作業をしながら、稽古したということですから驚きます。


虚脱状態と天地に任せきって何もしない状態とを、実感として自分の中で区別するのは、できるでしょうか。天地に任せきって何もしない状態は、「氣を出す目的」を持っているということなんで、なんとなく理解できそうです。


ただ、何度も申し訳ないですが「全身の力を完全に抜く」と立つことさえできないのですから、姿勢をつくる上でどういう力の使い方をすればいいのか、また動くときには「全身の力を完全に抜いた」状態から、どう変化すればいいのか、そこのところが不明です。



氣の威力』の中には、氣のテストとして「折れない腕」も出ています。

それによると


ただし、Aが「氣が出ている」という考えを途中で捨てたり、右腕に力を入れようとしたら、とたんに曲げられてしまう。消防ポンプのホースから水が勢いよく出ているときに、ホースを曲げようと思ってもできないだろう。同じように、指先から出ている氣に任せきって、腕の力を完全に抜いていると、腕は曲げられなくなるのである。氣は実在するものであり、心で「氣が出ている」と考えるだけで、実際に心の力、つまり氣がほとばしり出て、あなたの腕をより強力にする。これが心身統一のパワーである。

心で「氣が出ている」と考えるだけとお書きになっていますので、「ホースから水が勢いよく出ている」も考えるということでいいでしょうか。

でも普通に考えるだけでは、折れない腕にはならなさそうです。

「全身の力を完全に抜い」た上ですから、「ホースから水が勢いよく出ている」をリアルにイメージすると理解するのが妥当だと思われます。




もう少し具体的な脱力の中の力の使い方


先に紹介した『古武術と身体』の著者、大宮司朗師範の別の著書『開祖 植芝盛平の合気道』には、さまざまな合気道流派の呼吸力の養成法が紹介されています。

その中に、九州で合気道の普及に務められた万世館・砂泊諴秀師範の「呼吸力の出し方 練習法」が、著書『合気道の心・呼吸力』から取り上げられています。


引用の引用になりますが、一部抜粋します。



さて「脱力」に関しては、先の文に引き続いて、砂泊師範は同書で次のように述べている。
両手を出したときには、力は既に両手首に流れておりますので、肩や肘から押してはいけません。そうしますと、取られた手首はお留守になって相手の力が早く自分の中に入って来ますので、相手に捉えられてしまいます。そうなりますと体力での押し合いになってしまい、呼吸力にはなりません。腰と手首に任せてしまうのです。そうしますと他の部分の力は抜けています。

両手を持たれた状態という設定、いわゆる呼吸法の場合ですが、「力を抜く」が少し具体的になってきました。腰と手首に任せる。肩や肘から押してはいけないということは、つまり部分の脱力。身体のすべてから、力を抜いているわけではないということですね。


たぶん、力の出どころは腰(中心)ですから、最初に書いた起倒流の伝書にある「人には、天から与えられた自然の力がある」「自分の身体の重みを自由に働き動かす力」と、ほぼ同様のことだと解釈できそうです。ここまでに書いたことは、それぞれ言葉のニュアンスが違うものの、どれも似通っています。


やはり通底しているものの、塩田剛三先生は、さらに「力を抜く」と、相手がどうなるかということを書かれています。




開祖から授かった力を抜く極意


塩田剛三先生の『合気道修行』から抜粋します。

ただダラっと抜くのはダメ。養神館でいうところの中心力は必要。そして力を抜いて相手のとらえどころをなくし、それに乗っかるということまで書かれています。


長い引用です。


こう書くと簡単なようですが、実際に力を抜くというのは、とても難しいことです。これは、私が植芝先生から授かった、ひとつの大きな極意でもあるのです。
力を抜けといわれて、ただ単にダラッと抜いてしまったのでは、たちまち相手に抑えつけられてしまいます。そういうことではないのです。
先ほどから繰り返し説明している中心線、あくまでもそれは生かしておかなければなりません。ビシッと体に一本筋を通した上で、なおかつ力を抜く。そして、相手の力を自分のほうに乗せてしまうのです。
このとき少しでも反発する気持ちがあってはダメです。完全に力を抜いて、相手の持ちたいままにさせておく。そうすると、どういうわけか、相手は力を入れても入れても、その力が抜けてしまって、とらえどころを失ってしまうのです。
そうすると、どういうわけか、相手は力を入れても入れても、その力が抜けてしまって、とらえどころを失ってしまうのです。
そんな状態で、こちらがしゃがめば相手もしゃがむし、こちらが手を動かせば、相手はそれについて来ます。


合気道の行きつくところはここです。技とかなんとかではなく、この力の抜き方ができないと、本当に体力差のある相手とは立合えないのです。逆に、こちらから攻めて、相手が力を抜いたときに、それに乗っかるという手もあります。相手は力を抜いているわけですから、そこにこっちが 乗っかれば強くなるわけです。これを、私は一度、植芝先生にやって、誉められたことがありました。
ただし、それは先生が指導しているときでした。私が四ヶ条を先生にかけ、その説明を先生がしていたのです。
私が強く手首を握っても、先生は力を抜いて、ブラブラしています。そして、「もっと力を入れろ、それくらいしか力ないのか」と私をたきつけま す。
指導の最中ではありましたが、私はこのチャンスに先生に技をかけてやろうと思いました。こっちにすれば、勝負を挑むつもりだったのです。 私は言われるままに、四ヶ条の手にグッと力を入れるふりをしました。すると、案の定、先生がいっぺんに力を抜いたのです。そこへサッとこっちから乗っかったら、先生はコトンとひっくり返ってしまいました。 「そんなバカな」という顔をして私を見上げる先生を見て、私は一本取っ たと、得意満面でした。あとになって先生は、さっきの技は見事だったと、 誉めてくださいました。
こういうふうに、こちらがゼロになって相手の力を乗せるか、あるいは相手の抜く力にこちらが乗るかという掛け引きで、勝負が決することもあるのです。
何度も繰り返しますが、技には限界があります。 合気道の技がいくら上達しても、じゃあどんな相手にでも技が効くかといったら、そうそううまくはいきません。
ですから、最終的には力の抜き方を覚えなくてはいけないのです。抜いた力に乗るということ、これができれば、もはや技があって技がなくなり ます。こうなったとき、本当の自信がみずからの内に沸き起こってくるのです。


植芝盛平先生を、ひっくり返してしまうレベル。

追求したいです。


ともあれ塩田剛三先生のおっしゃっているのは、「力を出す」と「力を抜く」の呼吸。それによって相手の力が抜ければ、そこに乗るということですから、ただ「力を抜く」でありません。

植芝盛平先生を、ひっくり返してしまったのですから、「力を抜く」のはタイミング次第で大きな隙にもなるということを理解しておく必要があると思います。





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