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『体はゆく』が提起する“できる”の道筋と身体のユルさ



『体はゆく』という本を読みました。驚異的に面白い内容です。

サブタイトル「できるを科学する<テクノロジー×身体>」に惹かれて読んでみたのですが、動く技能を取得するとは、どういうことなのか。


そこをあらためて考えさせられるだけではなく、自分が技を習得するのは、こういうメカニズムでいいのか。そして、教えるプロセスは、こういうことでいいのか。ということを考える大きなヒントになると思います。もう考える素材は、いっぱい書かれています。





「できない→できる」の変化に何が必要?


『体はゆく』のプロローグには、こうあります。

「結論からいえば、私たちは自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになる」

「やったことのないことは、そもそも意識できない」「意識が正しくイメージできない以上、体はそれを実行できない」「スケートの四回転半ジャンプをやったことがない人が、四回転半ジャンプするとはどんな感じなのか、イメージできないのと同じ」だと。


そして、できるようになる過程は「意識とは一緒に行けないけれども、テクノロジーとなら一緒に行ける」と。ざっくりいえば、これが『体はゆく』のテーマです。

そして、そのテーマを5人の科学者/エンジニアとの対話を通して、掘り下げて行くという内容です。




テクノロジーとなら一緒に行ける例として、VRけん玉が取り上げられています。

なるほどあの例ねと、それなりに納得できます。



例えばフライトシュミレーターなどの、高度で職業的な模擬訓練装置の効果ならともかく。5分程度のVRトレーニングで1,128人のうち1087人がけん玉の技を取得したと示されたことで、簡易なVRによる技能習得への期待を一気に高めたと思います。


ただ飛行機のコックピットのように無数の装置があるわけじゃないので、けん玉なら時間がもっとかかるにせよ、できる人がやっている様子を詳細に観察することができれば、テクノロジー不要で出来るようになる気がします。

アイススケートの選手で、すでに四回転ジャンプができている人なら、羽生結弦選手が公式大会で四回転半ジャンプを認定された。それを見て四回転ジャンプのイメージを焼き付け、「あ、不可能じゃないんだ」とメンタルな壁を次々に乗り越えてもおかしくありません。




個人的な記憶でも、こういうことがありました。

小学生低学年のころ、親や親戚たちに連れられて、初めてボーリングをしました。ぜんぜんできなくて、ガーターばかり。それが数回目にボーリング場に連れられて行ったとき、いきなり140点とかを出せるようになりました。

自分でも飛躍的に点を出せるようになったのが不思議で、なんで?と考えた記憶があります。それは上手な人の投球を観察していただけ、だったと思います。


小学生以降、ほぼやっていなかったのですが、20数年ぶりに取引先の大会でやったところ、200オーバーが出て驚きました。

子供のころに見ることで、投げ方をイメージでき、身体が動きをトレースできた。

取引先の大会では、子供のころ出来た自信が、メンタルでプラスに作用した。そう思っています。


だからテクノロジーがなくても、「できる」方法はあると思うのですが。

まあ考えてみると私の指導方法はこんなプロセスで、小学生のころの記憶がベースかもしれません(笑)





身体はリアルとヴァーチャルを区別できない


しかし話は、もっと複雑です。著者はどうして「意識とは一緒に行けないけれども、テクノロジーとなら一緒に行ける」と言うのでしょうか。


そもそも著者はどういう方でしょうか。

著者のサイト https://asaito.com/ から引用します。


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伊藤亜紗(いとう・あさ)


東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長


リベラルアーツ研究教育院教授


東京工業大学環境・社会理工学院社会・間科学コース教授


MIT 客員研究員(2019.3-8)


専門は、美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次に文転。障害を通して、人間の身体のあり方を研究している。

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かなり不思議なプロフィールです。工学系でも体育学でも医学でもなく、専門としているのは、美学、現代アート。

情報工学の研究者が、メディアアートに進出したり接近したり、あるいはその逆というのはどんどん増えてきている気がします。今や現代アートとデジタル技術は学際的とも言えないほど切っても切れない関係ですし、AIによって、さらに関係が融合しています。そのジャンルの研究者であれば、まあ流行の最先端のひとつで脚光を浴びています。



でも伊藤亜紗さんは、それとはぜんぜん違う。私は『体はゆく』しか読んでいませんが、この本から推測すると、身体の障害ということから生命工学に接近し、リハビリなどの「できるようになる」ことを研究されているのだと思います。


たとえば『体はゆく』に出てきますが、病気や事故などで手足やその一部を失った人の幻肢痛。幻肢痛とは、あるはずのない身体の痛みを感じることですが、それを緩和する方法としてVRが用いられているそうです。

VRを使って、ないはずの自分の手なら手を見せて動かすと、痛みがスッと消える。ヘッドマウントディスプレイを外した後も、しばらく効果が継続するそうです。


もっとこんなことは出来ないだろうかと、理系の世界へと接近し、研究されているのではないでしょうか。



その稀有なスタンスはともかく、幻肢痛の話では、バーチャル空間の感覚が、「動かせない」「存在していない」と頭で理解している事実を超えて、しばらく残ると結ばれています。


それはまあ強烈にイメージできたことは、事実か事実じゃないのか、脳は区別できないという話がありますが、それに近いのではないかと思います。

武術的な話でいえば、間合いや位置を錯覚させるなどの視覚を騙す、接触面から情報を与えず触覚で騙すなどの技法は、数多くあります。というか、それがないと、体格差で勝る相手に技を掛けるのは、ほぼ無理じゃないかとさえ思います。


ざっくりまとめるなら、それらは相手の脳を騙すこと。また逆に自分の脳を騙すこともあります。



著者は「体は“リアルそのもの”と言えるほど、確固たるものではありません。体はたいてい、私たちが意識的に理解しているよりも、ずっと先に行っています」と書いています。

頭では違うと分かっているのに、VRによって騙されて、ついその気になってしまう。ある意味、体はとても「ユルい」。でもそのユルさが、私たちの体への介入可能性を作り出し、身体を可能性を拡張しているとも言えるという趣旨のことを書かれています。


そんな文章を読むと、ある種の“合気”の解釈を持っている人は、ふふふと鼻を膨らませていそうです。私は、ふふんと鼻が垂れそうになりました(笑)



いやリアルとバーチャルという言葉はともかくとして、人間の身体が完全に意識の支配下にないことは、それほど意外ではありません。





テクノロジーを使うことの意味


著者はどうして「意識とは一緒に行けないけれども、テクノロジーとなら一緒に行ける」と言うのでしょうか。もしかすると動きを習得するのは、自分の脳を騙すことが、早道だったり最適ではないのか。本書を読んでいると、そんな気がしてきます。



意識することは、いわば言語化すること。言語化とは、ロジック、理屈で捉えること。術理は、理屈で理解しておかないと、たぶん汎用性に乏しい。



たとえば型は標準化されたもの。言い換えれば同体格の相手を想定したもの。


もし相手が20cm以上も身長が高ければ、間合いも違うし、角度が違う。型通りの動きで、どうにかなるかと、たぶんどうにかならない。なぜ効かせられるのか、その術理を理解していれば、効かせる形に持ち込む手立てを見つけられるかもしれません。

言い換えれば、応用がきくということ。



しかし、そこまで行く以前に、日常動作にない動作を習得するには、通常どんな武道でも型を繰り返すことが要求されます。それは意識を超えた、というか意識を抑制した、動きの自動化ということではないか。

私が基本動作の稽古のときによく使うのは、「普段歩いているときに、歩くことを意識してないでしょ。それと同じように、基本動作の動きは考えなくてもできるように」という説明。

同様に剣杖も、自分の身体の延長のように馴染ませると説明しています。つまりは自動化。


それでも難しいのは、何より圧倒的に稽古量不足。



とは思うのですが、『体はゆく』には第一章で「ピアニストのための外骨格」が出てきます。

対話の相手は、ピアニストで音楽演奏科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所のシニアリサーチャーなど、さまざまな肩書きを持つ古屋晋一さん。


古屋さんが語る「人生最高の演奏経験」の話が面白いのですが、ここに触れると長くなるので、サイエンティストとしての研究の一つ、「エクソスケルトン」について書いていきます。

エクソスケルトンはグローブ型の外骨格。装着すると、指を本人の意志と切り離して動かすことのできるシステムで、例えばプロの指の動きを、そっくりそのまま体験することができるそうです。


いろいろ書くより、この動画を見れば一発で理解できます。


ピアニストの反田恭平さんが、エクソスケルトンを体験されています。

反田さんが演奏を教えるときに、言葉だけ・見せるだけでは伝わらない弾き方を、エクソスケルトンをつないで体験すれば、意識思考とは関係なく、体の感覚として伝わります。


私はここで、なるほどテクノロジーだとね!と納得しました。


私は基本動作・体の変更(一)の稽古のとき、ちょくちょくこういうことをします。あまり動きがスムーズじゃない人の中指をつまみ、動きを誘導するのです。体の変更(一)の動きは、指先に引かれるように動いた方がいい。いや指先ではなく、もっと先。剣を持っていて、剣先が相手の首に吸い込まれていくようにと説明しています。



もちろん剣を使った剣操法で体の変更(一)もやっていますが、問題は徒手のとき。動きがぎこちなければ、指をつまんで導いてあげた方が感じを掴めるだろうと思ってやるのですが、スムーズじゃない人ほど、ガチガチに硬くなっています。


「もっと力を抜いて」と言うのですが、そうすると「掴まれているから力む」と反論されたりします。ほんの軽くつまんでいるだけなのに、こう反応されるとお手上げです。硬いというのは、あちこち筋肉が緊張して収縮してるからで、収縮していれば、動きが滑らかになるはずがありません。メンタルから変えてもらうしかありません。



それがエクソスケルトンなら、装着した人が硬いも柔らかいも関係ない。人に触れられていないので、緊張も少ないかもしれません。確かに「意識とは一緒に行けないけれども、テクノロジーとなら一緒に」行けそうです。



この動画ではもうひとつ。とても、面白い内容がありました。

古屋晋一さんが1万時間の法則について、時間よりも「トレーニングの質であったり、教師がどういう風にガイドするかの方が大事だと言われています」とおっしゃっています。まったく、その通りだと思います。





「できる」をどうガイドするかのヒント


ほか、四人の理系研究者と対話されています。

・なぜ桑田真澄選手は投球フォームが違っても結果は同じなのか

・環境に介入して体を「だます」“農業的”テクノロジーの面白さ

・脳波でしっぽを動かす――未知の学習に必要な体性感覚

・「セルフとアザーのグレーゾーン」で生まれるもの


どれも面白いのですが、特に武道の人には、桑田真澄選手の話が興味深いと思います。

NTTコミュニケーション科学基礎研究所の柏野牧夫さんの研究。桑田元投手に同じように投げてくださいと言って、投球フォームを繰り返し映像に撮ると、毎度かなりフォームが異なり、リリースポイントが14センチもズレているそうです。動きの「ゆらぎ」は大きいのに、結果はほぼ一定。

さらに面白いのは、本人は同一の動きで投げているつもり。本人曰く「レールがあるから、そこのどこかにボールを置くだけなんです」。


分解的にフォームを意識してコントロールしているのではなく、あくまで体性感覚。イメージに乗って、投げているだけのようです。それで制球が安定しているのなら、細かなフィードバックは不要なのかもしれません。


と、いままでになかった視点で「できる」を考察することができます。

これが正解だ!はありませんが、ヒントはどんどん出てきています。

ぜひ買って、読んでみてください。










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