先日の稽古で、こんなことをしていました。
ツイートに書いているように、私は「人の身体は千差万別。痛めつけないためにも効かせるためにも、相手に最適化した対応が必要」だと考えています。正確には身体そのものではなく、そのときの身体の状態ですが。
稽古が終わってから、「相手の身体がどうかって、どうやって知るんでしょう?」と聞かれました。掛け方ではなくそこか。
高段者でも私が「いまのは上腕二頭筋に力が入った」と指摘すると、「そんなことどうやって分かる?」と言う人がいるぐらいですから、もしかすると感じられない人にはさっぱりなのかもしれません。だけど改めて「どうやって知る?」と聞かれると、感じているだけなので具体的には答えられません。
エアコンによって調整された今の室温が、寒いか暑いか、ちょうどいいかはあくまで個人の感覚。なぜ寒いのかと聞かれても答えられないのと似ています。
とはいえ自分が投げる場合なら、相手はどこから来た力か分からないから対応できない。対応されないから、投げられてしまう。
たとえば片手持ちの技なら、重心の落下や腰の回転、足裏からの反力など複数のベクトルが、同時に進行する。持たれたところからだけじゃなく、腹や肘などなど複数の接点から同時に伝わる。相手は複数のベクトルに対処できずに、投げられてしまう。
決して圧倒的なパワーや痛み、あるいは梃子だけで投げるんじゃない。似た方法が他の武道であっても、そこが合気道とのちがいだと私は思います。筋力や体格で圧倒して、それでよしとする合気道はまずないはずです。
そのためには、相手の身体の状態や反応の変化を感じ取ることが必須。感じられなければ、痛めつけてしまったり動かせなかったりして、最適化した技にはならないでしょう。
私たちの身体は、意識しなくてもたとえばガラスのコップを最適な力で持つことができます。過剰な力で持つと、割れてしまうかもしれません。重い荷物なら、滑らないように適切な手の構えになると思います。
技においても、そんな日常生活のような最適化された動作になるためには、何が必要でしょうか。
私は精晟会渋谷ではなく、所属道場でも稽古しています。所属道場では高段者ばかりなので、呼吸力としての抵抗が半端ない。主にガチガチに、そこをどう突破するかの稽古をしています。
一方で、大学合気道部の女子大生が出稽古に来ると、私が審査技の指導をさせられることが多かったのです。そんなことを長年やっていると、おわっ!骨折してる!?と慌てるような反応が返ってくることだってありました。あまりにも柔らかい人には、投げ技は通常の方法では難しいかと思います。
本当に千差万別です。
感じるためには、自分が余計な力を抜いて、センサーモードになっていれば… あっ
甲野善紀がおっしゃったセンサーモードは
センサーモードとは、甲野先生が著書『古武術からの発想』の中で使われた言葉です。たぶん他の著書では、使われていないと思います。
ともかく私はセンサーモードという発想に、とても納得しました。
引用します。
こちらが支点を消して気配を消せば、相手は情報をほしがる。相手は力を抜き、センサーモードにならざるをえない。
その受け身のセンサーモードのときに、相手側から脈絡のない動き(情報)がドッと入ってくると、全く抵抗できないし対応できない。
自分の支点を消すことのメリットとして説明されています。
甲野先生は無軸を提唱されていますので、相手の手がかりになることを消してしまう。そうすれば、相手はこちらを探るために、センサーモードになる。つまりは力抜きだと解釈していいと思います。
気配を消すとは、自律的に力を抜くことだと思います。自分が自律的に力を抜くと、相手は他律的に力が抜ける。ということではないでしょうか。
ともあれ「相手の情報を接点から得るためには、力を抜く」ことだと、私は解釈しました。接点、この場合は腕の力を抜くこと。腕が力んで固めていると、相手からの情報は得られない。ここは多くの方に実感として同意していただけると思いますが、どうでしょう。
じゃあどうして力を抜くと、相手の状態を知ることができるのでしょうか? センサーモードとは、つまりは触覚の機能が働きやすくなるとか?
合気道の稽古は、どこの道場だって触覚に偏重しているはずです。でも触覚がなんなのか、少し裏付けのある内容では、まったくと言っていいほど語られていないのではないでしょうか。
触覚に関する情報はとても少ない
以前に書いた『“疲れない体を脳からつくるボディハック”を題材に』で取り上げた本には、「自分はいま“どこでどう”なっているのか」を知るためのプログラム=ボディスキーマがある。ボディスキーマの主な構成要素は三つ、触覚、平衡感覚、固有受容性感覚だとしています。
いま自分の左手中指はどこにある。つま先はどっち向いてる? などを把握するには体の地図(ボディマップ)が必要で、その土台になっているのは、触覚、平衡感覚、固有受容性感覚ということです。
だけど、それだけ重要な触覚については簡単にしか書かれていません。
実際のところ、触覚に関する書籍はそれほど多くなく、一般書は皆無に近いかと思います。
とはいえ、私には専門書を読むほどのお金も情熱もありません。ところが最近、『触れることの科学』という本を見つけました。
タイトルも装丁も一般書っぽくしてますけど、雰囲気だけで、実際はかなり難しい内容です。運動の本でも、もちろん合気道の本でもないですが、あ、これはやっていることを理解する手がかりになるかもと思えることがいくつかありました。
ただ私の頭では、簡単な内容に変換できません。著者だって、失敗しているぐらいですから。
ですので、手がかりになりそうなところを、少しピックアップしてみます。
皮膚は身体と外界とのインターフェイス
まず、基礎的な知識。
『触れることの科学』には、「皮膚は身体と外界とのインターフェイスであり、その空間的な位置の特性上、触覚が発生する場所となっている。皮膚は、接触の情報を身体に送ると同時に、外界に存在する危険な物質を閉め出しておく役割を果たさなければならない」とあります。
「危険な物質を閉め出す役割」とは感覚的にもそうなんだろうと思えますが、もしかするとインターフェイスとして触覚への刺激もシャットダウンしてしまうんだろうかと想像しました。
そうだとすれば、「力むと接点から相手の情報を得られない」説も正しい、につながりそうです。
皮膚には4種類のセンサーが埋め込まれている
無毛皮膚には、主に4種類の触覚の専用感覚器、つまりセンサーが埋め込まれているとあります。
これがまた難しいので、掲載されている図を元に描き起こしました。
浅い・深いとは、表皮にあるか真皮にあるかみたいなことです。信号が短い・持続するとは、スパイク(電位変化)を発火し続けているか、一瞬だけか、みたいなことです。
4つのセンサーについては、たとえばマイスナー小体の「握る力の制御」は脊椎反射。意識に登ることはない。ルフィニ終末は横方向の引っ張りに敏感で、皮膚を垂直に押す力にはそれほど反応しない、
など、とても興味深い内容です。
個別の説明だけでも膨大ですし、さらに知りたい方は本書『触れることの科学』を読んでください。
とりあえず「この4つのセンサーは、浅いところにある・深いところにある、瞬間的な信号を発する・持続的な信号を発するという見事な対称性を持っていて、それによって起こりうるすべての事態をカバーしている」ぐらいを知っておけばいいかと思います。
脳地図は変化する
ペンフィールドの脳地図と呼ばれるものがあります。あちこちで使われているので、ご覧になった方も多いと思いますが、多くはかなり適当です。
『触れることの科学』には「1930年代にモントリオール脳神経研究所で働いていたワイルダー・ペンフィールドとハーバート・ジャスパーらは、てんかん患者の脳手術中に脳の一部を電極で刺激するという研究を行なった」とあります。
そのグロい研究の様子は、こちらから見ることができます。
刺激箇所と患者の動きや言葉を記録していくと、見事なパターンが明らかになった。皮質の触覚地図で表される人体が出来上がったのです。
ペンフィールドのホムンクルスという呼び方が一般的ですが、ホムンクルスとは小人です。
それが、下のリンク、岐阜大学大学院のコラムの最初の図です。
さらに身体各部の大きさを皮質の地図の面積比率に合わせ、3D化したのが、その次の写真。ロンドン自然史博物館にある模型だそうです。
このペンフィールドの脳地図では、手と唇と舌が極端に大きくなっています。その理由を『触れることの科学』では「皮膚の機械受容器の密度が高い」としています。
でも受容器の密度が高いから、だけではありません。
「ここにはもうひとつの重要な要素がある。脳の触覚地図は生涯を通じて固定されているものではなく、ひとりひとりの感覚経験によって変化しうるということである」とあります。
さらに引用します。
プロやセミプロの弦楽器奏者で、週に少なくとも12時間はバイオリンやビオラやチェロを弾いている人を見れば、そのことはよく分かる。このような楽器では、左手の指は常に弦を押さえ、ビブラートを生み出している。触覚刺激は強く、非常な敏捷さが求められる動作だ。これに対して弓を持つ右手は、個々の指の動きも、触覚的フィードバックも、左手ほど大きくない。
このような弦楽器奏者の脳をスキャンして1次体性感覚野の手に対応する部分の面積を測定してみると、左手の指が右手の指に比べて約1・8倍あることが分かった(対照のため、音楽家でない同年代の人々を調べたところ、右手と左手の触覚地図はほぼ同じ大きさだった)。同様の研究が3つの異なる研究所で異なる方法で行われ、基本的に同じ結果が得られているため、この現象は間違いなく生じているものと思われる。
もっともこの現象は、弦楽器奏者で長時間演奏しているから、左手の触覚地図の拡大したのか。それとも生まれつきそうだったので、プロの弦楽器奏者になったのかが分からない。そこは時間がかかりすぎるため、検証しようがないとしています。
もし、“誰でも”長時間繰り返せば触覚地図が拡大するとすれば、器用さや俊敏さが増すということになります。1万時間の法則みたいなことも、妥当性があるということになります。
しかし、私の興味はむしろ逆。大脳皮質の面積で敏感さや制御の能力が表せるのであれば、面積というリソースの中でどこかが拡大すれば、その分だけ他の部分が減るのでしょうか?
先に書いたように、合気道では触覚に偏重した稽古が一般的です。それは主に手や手首です。手や手首の感覚が肥大化が、もし他の部分とトレードオフの関係なら、これはやっかいです。
皮膚は身体的接触には必ず文脈がともなう
『触れることの科学』の第一章は「皮膚は社会的機関である」なんですが、実はこの本全体のテーマともいえるものです。触覚は触覚だけで知覚されるわけではないという視点から、全ページを書き下ろしているといっても過言でないでしょう。
第一章から引用します。
現実世界での身体的接触には、必ず文脈が伴う。私たちは経験上、同じ身体的接触が感情的にまるで異なる意味を持つことがあるのを知っている。触れる側、触れられる側が男か女か、両者の力関係、個人的経験、文化的文脈により、意味合いは変わってくる。肩に腕を回すしぐさは、仲間意識や共感を示すこともあれば、性的関心や、社会的な優位性の意識を伝えることもある。
触れられた感覚は既に感情に満ちている
人と人との接触をどう知覚するかには、文化、性別、社会的状況が大きく影響する。この事実から、次のような重大な疑問が湧く。同じ圧力、同じ動きで与えられるまったく同じ感覚刺激(たとえば肩に腕を回して短時間力を込める)により、皮膚と筋肉から完全に同じ信号が脳に送られているのに、どうしてこれほど異なる知覚が生じるのだろうか。
生の触覚感覚が、私たちに刷り込まれた経験と結びついて、最終的に非常に感情に満ちた対人接触の知覚を生み出しているに違いない。ここで経験とは、子宮の中から始まり現時点に至るまでに通り抜けてきた文化や性役割などの個人史をすべて含む。過去の経験と現在の感覚とのこうした結びつきはほんの一瞬のうちに起こっているはずである。
読んでいると、これってつまり心理的なこと? と思えるのですが、それだけではないようです。
翻訳者の方があとがきで書かれています。
著者に言わせると、触覚は(あるいはあらゆる感覚は)、外界のあり方を忠実に報告するのではなく、人間がそれに応じた行動をとることに向け、経験や予測に基づいて外界のあり方を推測するシステムなのである。
個々人の経験や予測に基づくのであれば、入力が同じでも反応が違って当然ですね。
触覚は、センサーに入力された情報がほぼ専用線で脳まで到達するのですが、そこで他の感覚や記憶と混じり合って知覚として認識されるようです。
握ったところから相手の状態が分かると思うのは妄想?
こう引用してくると、私が相手の状態が分かると感じているのは、たぶん触覚だけじゃない。いや、触覚自体が「経験や予測に基づいて推測」しているということになりそうです。
推測だとしたら、これまでの経験がどうなのか。パターン認識だとすれば、多様な相手とさまざまな方法で稽古していれば、限りなく正解に近づくでしょう。
逆に、同じような相手と、定まった稽古方法でしか稽古していないと、限りなく妄想に近くなるかもしれません。
少なくとも相手によって変えたり調整する最適化は、多様な相手とさまざまな方法で稽古する。つまり経験値を積み上げるしか方法はなさそうです。
予測が触覚の錯覚を生み出す
『触れることの科学』の最後の章は「触覚の錯覚と超常体験」。著者は「シェイクスピアの魔女の予言のように、人は神秘的な身体感覚を口にしたがる」と書いています。
とても簡単には書けませんが、こんなフレーズがあります。「触覚感覚がほかの感覚刺激(音など)と同時に入ってくると、それに先立って存在する予想が錯覚を生み出すことがある」と。
予想がくつがえると、混乱するのは当たり前でしょう。だから予想しないのがいい。無心であることが、武道では求められるのだと思いますが、触覚が「経験や予測に基づいて推測するシステム」なら、意識的にはどうしようもありません。
錯覚の例として、「皮膚うさぎ」と呼ばれる現象が取り上げられています。
本書にはそんなことまで書いてありませんが、手に持った道具のに伝わる感触も、皮膚と同様に感じているそうです。つまり道具の上でも皮膚うさぎ現象は起こると。
参考になるのは、まずGigazineの記事
そして国立障害者リハビリテーション研究所の記事
『触れることの科学』の著者は、「皮膚うさぎ」現象について、こう書いています。
これはポストディクション(後測、後づけ再構成)と呼ばれる効果で、皮膚が叩かれた瞬間からそれが知覚されるまでの短い遅延時間(約0.2秒)により生じる。この知覚の遅れの間に脳は、流れ込んでくる情報と予想を混ぜ合わせ、時間を遡って、起こった出来事の知覚を変化させる。
ここを読んだとき、私は笑いそうになりました。なぜってある系統の大東流の合気の技術は、この遅延時間を利用したものだと言われています。
この触覚の錯覚、あるいは混乱を利用して掛けるというのは、有効そうです。
少なくとも相手の予想を裏切ることは、合気道にとって、とても重要かもしれません。
私は本書を読んで、相手の状態を知ることよりも、相手に錯覚させることの方が重要だと考えるようになりました。
なぜって、センサーによって正確に相手の状態を知ったとしても、しょせんは経験などから推測しているだけ。知ろうとすればするほど、騙される。
もちろん自分が学ぼうとするときには、知ろうとする状態が不可欠ですが。
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