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当身を含まない理合って成り立つだろうか?


先日、体験に合気柔術をやられている方が来られました。

うちでは他流の方はもちろん、養神館の方でも、所属道場が併修を認めていない限りお断りするようにしています。なぜって、トラブルしかないからです。



体験のページに明記しているのですが、その方は「所属している合気柔術の先生は、併修を認めている」と書いて申し込まれてきました。

お会いして聞いてみると、「理合の稽古しかしておらず、受身もやらない。なので先生は併修を、むしろ勧めている」とのことでした。



確かに、そういう道場はあります。先生が高齢で、動けなくなっている場合もあるでしょう。

昔、私は他流の合気道をやっていて、そろそろ辞めよう。他の団体・流派を探そうと、あちこちに体験に行っていたときのことです。体験はNG。見学だけでしたが、受身をしません。ふにゃふにゃと崩れるだけ。という道場がありました。

あまりに不思議で終わってから理由を訊ねると「本当の投げは、受身なんて取れない」とのことでした。え!? 受身できなさそうな投げは、今日見てないけどなぁ「ふぇ?」な感じでした。




実は「私があちこちに体験に行っていたとき」、体験に来られた方の先生のところにも、行こうかと考えていました。そのころは動画を公開している武道なんて、ごくごく少数でした。調べたら、YouTubeの日本語サービスは2007年スタートだそうですから、20年も経っていません。

もちろんウェブサイト上で公開する方法はありましたが、ほとんどが低解像度の小さな動画。そんな時代に公開されていたのですから、現在より桁違いに手間ですし、よほどの自信がないと公開されないでしょう。


私は、この先生すごい合気の技術だな。この技術は魅力がある。

とは思ったものの、家からあまりに遠かったのです。それともうひとつ。「これは、いったい武道なのか」という疑問でした。





隙をつぶさない型稽古の問題


体験の方に、稽古が始まる前にそんなお話をしました。

ディスっているわけではなく、こちらの考え方を伝えておかないと、その方だって判断しようがありません。

その方は以前に合気道をやられていて、私がかつて稽古していた合気道と同じ流れだったので、共通言語が多かったのです。なら私が流派を変えた理由は、判断材料になるはずです。変えた理由のひとつは、まさにそんなこと。



その先生だけではなく、多くの型稽古だけをする道場では、間合いや死角について無頓着だと思います。いやいや、それ殴られるでしょうというのはいくらでもあります。そこに気が付かずに稽古するのは、マズ過ぎないでしょうか。

殴られる可能性には留意しても、蹴られることを想定していない型稽古の武道・道場は、膨大にあると思います。



ある高名な先生の稽古会では、手が剣先に触れるでしょうと間合いでの剣取りをやりました。すごい技術だと思ったものの、こんな間合いで剣を振り上げたりしないでしょう。チョンと剣先を進めれば、指が斬れてしまいます。つまりはこういう身体操作もできるということであって、武道的な技の稽古ではないよね、さすがにと思いました。


うちでは剣取りを稽古するときに、飛び込む距離を短くしようと剣先に触れそうなところまで近づく人がいると、絶対にダメだと言っています。



同様に、合気上げや呼吸法も技ではないでしょう。

私たちが稽古している座り技呼吸法も、私は技じゃないと言っています。呼吸力の感覚、身体を養うための限定的な稽古法。力まかせじゃない力の出し方を学ぶ方法だと思っています。

上に上げる呼吸法(一)や(二)でも、両手を封じるように相手が正面から掴んでくるなんて技の状況設定はありえない。なぜなら、蹴ることができるからです。



私でも正座から蹴ることができるんですから、できる人は世の中に大勢いるでしょう。


呼吸法の(一)や(二)とは、こんな感じです。

当たり前ですが、蹴ったりなんてしません。呼吸の出し方の感触を得るための稽古です。感触を得て力の出し方を養って、ほかの技の中でどう使うかが問題ですが、まずは呼吸力に特化した稽古法で養成しておくということだと思います。





型は「勝負法」ではないという発想


植芝盛平先生は、蹴ること、足を上げることは品がないと言われていたそうですが、少なくとも蹴り技に対する稽古はされていたのです。

多くの合気道では当身もないのですから、蹴りなんてとんでもないと考える人が多いでしょうが、当身がないから相手も当身してこないとした発想は、武道になりますか?



以前にも引用していますが、開祖を東京に呼び寄せた海軍大将竹下勇の技術備忘録によると「当身対抗技の分類」があり、そこには「組んだ状態からの当身が 37.1%(251手)」、その中には半座半立で「受が両手で取の両手首を取り、右足で蹴る場合」があります。



別に蹴るという行為がどうのじゃなく、相手に攻撃の隙を与えないことが武道の最低条件だと思います。私はそれが「我より近く、敵より遠く」だし、敵からも近くなってしまう場合は、先に当身を入れて攻撃線を封じると同時に崩すと言っています。




体験の方の先生が合気をかけるとき、いつも近接した間合いで、ほぼ正体して向かい合ってる。そして受けの反対の手は空いているし、もちろん足だって空いているから、いくらでも反撃できる。そんな設定じゃないと使えない高度な技術って、武道武術として絵空事?


型は勝負法ではないんだから、抵抗するなんてもってのほか。蹴るなんて、とんでもないという人も多いでしょう。じゃあその型稽古の型は、なんのために存在しているんでしょう。





実戦に通用するかどうか問題


体験の方に、稽古が始まる前にお話ししたのは、このあたりまで。

すると「先生は、私は実戦はからきしだから」と言われていると返ってきました。からきしダメなのか、からきし無頓着なのか分かりませんが、ああーそういうことなのかと。


でも私も稽古していることが、どこかで「実戦」が起こっても通用するなんて思っていません。

うちは他よりも剣取りや杖取り、短刀取りなど、対武器の技を頻繁にやっている道場だと思います。

でも本当に相手の武器、もちろん刃物を取れるとか、あしらえると思わないでくれと、これも頻繁に言っています。



じゃあなぜ武器取りをやるかと言えば、対徒手よりも、はるかに緊張感があるから。それなりに威力のある、あるいはスピードのある打突ができる人を相手にしないと、技としての対応力・レベルが向上しない。

でも武器を持てば、どんなにへなちょこな人でも攻撃力が爆上がりします。

そして武器技を稽古するのは、まず中心力の養成や正中線の意識強化。そして徒手の技になったとき、仮想の武器を持っているイメージで動けば、接点から意識を外しやすくなります。つまりは、うちで武器を稽古するのは、徒手のレベル向上のためです。まちがっても真剣を振り回そうとか、刃物を相手しようという目的はありません。




型武道の人は、試合や乱取り、組み手をしないのは危険な技だからできないんだと、よく言います。なんでもアリだから、武道武術なんだと。

いや、それは厨二病をこじらせ過ぎです。武道をやっている人、特に型武道の人は、ほぼ例外なく厨二病傾向があると思います。私も同じだと思いますが、こじらせないように気をつけています。


少なくとも日本では、ほぼ100%の道場が「危険な技」なんて稽古していないと思います。やってるとすれば、ゆっくりと、ケガをしなように。武器対武器なら、絶対に当たらない間合いで行っている流派もありますよね。そうでなければ、怪我人続出で道場が成り立たない。続ければ道場運営者が訴追されるか、社会的に抹殺されてしまうはずです。

もしくは防具を装着してやっている。その上で、なんでもアリに近い状態でやっているところはあると思います。


ルールがあって、審判やレフリーがいて、一定程度の安全性が担保されている環境下でガチガチやっている方が圧倒的に強いし、体力はもちろん対応力があるのです。


前にも書きましたが、私は大会前の、練習直後のホイス・グレーシーにインタビューしたことがあります。UFCで三度王者になり、世界中にグレーシー旋風を巻き起こしたあのホイスです。

インタビューの間、視線だけで何度も殺されるかと思いました。いや本当に、殺し屋かと(笑) 

怒っているわけじゃなくて、練習の興奮がおさまっていないのでしょう。

なんでもアリでやっている世界レベルの選手って、それぐらい凄まじいと思います。




なぜ勝負がなく型稽古でやるかといえば、ケガや故障をせず、安全に稽古を続けるためです。年齢性別関係なく、長く続けられるからです。平たくいえば、基本は健康のため。

競技をやる人に、ケガや故障はつきものです。その期間中、基本的には稽古できません。でもギリギリまで練習しないと、勝てない。勝ち残っているのは、ケガや故障をしなかった人か、克服した人ということです。

そして多くは30歳代半ばぐらいでで、引退がやってくる。



だからといって型稽古で隙、死角をつぶしていかないのは、ぜんぜん別の話。

武道としてやるなら、感覚として自分の隙に気が付かないなら、何年やっても意味はありません。


すべての技は、限定的な設定の中で進化してきたと言ってもいいかもしれません。合気上げや呼吸法を技として捉えるのは、両手を掴む以外の攻撃をしてこないというお約束の中で考え方です。教える側は、これは何のためにやっているかを常に説明していないと、妄想をばら撒くだけです。





塩田剛三先生はなんと言われているか


なんども引用している『合気道修行』には、こうお書きになっています。


基本技に対してよく言われることに「相手に手首を掴ませるのはおかしい」というのがあります。
これはそのとおりで、実際は相手に手をつかまれるようなことがあってはいかんのです。相手に完全につかまれる前に技を施すのが本当の合気道です。
しかし、何度も言いますように、基本技というのは、稽古のためのものです。手を取らせるのも、相手の力の変化、たとえば押す力か引く力かの違いによって、こちらの体さばきがどう変わるかを学ぶのが目的なのです。
こういうふうに、基本技を反複練習し、相手のいろんな力に応じた体の動かし方を身につけてから、次の段階では、それをもっと変化のある動きの中で使いこなせるよう稽古していけばいいのです。

ということです。これ流派によって違いますが、多くの養神館の道場では、白帯の人たちは基本技ばかりを稽古しています。その上で、茶帯や黒帯になれば、自由技をやっていく。多人数取りをやったりして、基本技から応用変化した技の使い方を習得していく。


つまり手をしっかり持たせるのは、稽古のための手段。ところが黒帯になっても、「稽古のための手段」しかやらず、自由技などをやらなければ、いつまでも「次の段階」がありません。動きの中で技が使えないということです。


座り技呼吸法を例にして考えると、呼吸力に特化した稽古はしているけれども、動きの中で呼吸力をどう使うかは、まったくやっていない。ということに、なりかねません。





臂力の養成は低次の合気なのか?


稽古が終わり、体験の方からこう言われました。「あれは柔術ですよね」と。


たぶん座り技呼吸法(一)の稽古をし、これは臂力の養成の上半身と同じ身体の使い方という説明をし、諸手持ちの技も稽古しました。他の流派だと心法的な要素がありますが、養神館では言わないと思います。

座り技呼吸法(一)では、これだとそこそこ重い人でも、握力の弱い女性でも上げることができると説明していたのです。



なので「そう、柔術ですよ」と答えました。

以下、体験の方との会話です。


私:昔ある有名な方が「臂力の養成は低次の合気だ」と言ったんです。

体験の人:失礼な言い方ですねぇ。あの方でしょう。

私:でも低次元高次元という言い方するなら、低次元だと思いますよ。

  構造的に上げてるから誰だって、そこそこやれば出来るようになる。

  だけど低次元を知らずに、高次元だけを稽古してどうするんですかね。

体験の人:なるほど



私の解釈だと、足し算引き算が出来ないのに、微分積分を学ぶ。

足し算引き算ができないのに、高等な数学だけを習って習得できるなんてことがあるんでしょうか。実態はそれどころじゃなくて、読み書きをやってないのに微分積分から、みたいな気がします。


それに対して、養神館の稽古の仕組みは、天才じゃなくても誰でもそこそこのレベルまでは行けるということだと思います。





基本技のすべてに当身が入っている意味


両手持ちなどをのぞいて、養神館の基本技のほぼすべてに当身が入っています。当身の目的は何かといえば、もちろん相手の動きを一瞬止めさせる・固めさせることもあります。でも私は、それ以上に自分の隙を先に潰し、相手を崩すことが重要な場合が多いと説明しています。


当身が入るのは、単純に言ってお互いの間合いが近すぎること。

合気道では、連続した攻撃を想定する技はとても少ないですが、求愛じゃあるまいし、手だけ掴んで何もしないなんて現実はまずありません。だから一番は、次の瞬間に来ることが可能な攻撃線をつぶしてしまうこと。それがそのまま、崩しにもなります。



お互いに当身を使わないなら、接触した瞬間に崩していることが必要になります。

両手持ちなら、通常の稽古で蹴ったりしません。だから持たれた瞬間に体捌きをして、崩してしまうことが必要なんです。そうじゃなければ、自分より重い相手に持たれただけで、とんでもなく危険な状況になります。

胸持ちや肩持ちも同様で、殴られているのと同じだから、何より力の線を外してしまうことだと説明しています。



分かりにくいかもしれませんが、間合いは単純な距離ではなく、たとえば相半身、逆半身でも変わってきます。「一足一刀の間合い」というのは、一歩踏み込めば刀が届くという意味ですが、一方が杖ならもっと広くなります。徒手対徒手なら、もっと近くなります。間合いに入られているのに何もしなければ、ポジショニングで不利になります。というか、ほぼ絶対的と考えた方がいいでしょう。



開祖が言われたという「正勝吾勝」は神名ですが、合気道的には「勝たずして勝つ 正しく勝つ 吾に勝ち、しかも一瞬の機のうちに速やかに勝つ」だとされています。

私見では、まずは理にかなった相対的なポジショニングだと解釈していいと思っています。


ここに入っちゃったら、負けるわけはないでしょうという位置関係と体勢。

動きの中で、それを可能にするのは体捌きということです。その理にかなった位置を体得するためには、相手の当身が入るか入らないかを理解することだと思います。



ここでいう当身とは、拳だけではなく、背中、肘、頭、足。要するに全身を使って行います。前述の塩田剛三先生の『合気道修行』から引用すると


当身といっても、合気道の場合は拳や蹴りなどにこだわりません。体中いたるところが武器になります。

とのことです。だから、全身を使っての当身を理解しないと、「理にかなった相対的なポジショニング」かどうかは分からないと思います。

間合いが近くて、拳による有効な当身を出せないでしょうという位置関係でも、背中や後頭部、足裏を使った当身はできます。本当に出せないのは、相手の明らかな攻撃線を封じた位置関係と、当身へとつながる力の流れを止めてしまう体勢だと思います。




タイトルにしたテーマに戻ると、技としての理合は、まず当身は入るか入らないかだと思います。当身を考慮しない理合は、成り立たないでしょう。

なぜって、まず間合いの概念がない。つまりは隙だらけ、ということですから。

そこを感覚で察知できなければ、護身なんて何にもできないと考えています。








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