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武産合気って、合気道と何がちがう? 開祖は何を伝えようとされたのか


※写真は『武産合氣』から


久しぶりに、合気道の用語です。


武産合気(たけむすあいき)という言葉を聞かれたことはあるでしょうか。通常、稽古で出てくるようなフレーズではありませんが、武産合気を標榜する団体はけっこうあります。

今回も開祖の直弟子の方々の言葉を、書籍等から集めて解き明かしたいと考えています。斉藤守弘先生をメインに、植芝吉祥丸先生、そして武産合気の概念らしきところは、田中万川先生や五味田聖二先生、塩田剛三先生の言葉から探っています。


なにより最も長く開祖に仕え、岩間で薫陶を受けられた斉藤守弘先生は『武産合気道』という技術書のシリーズを出版されています。



開祖ご自身が語られた武産合気は、『武産合氣』という本になっていますが、とても難解です。理解させようという気は、ないのではないかと思うぐらいに(笑)

もちろん武産とか、武産合氣という言葉は数多く出てきます。

引用すると


合気道とは、真の武であり、愛のみ働きであります。
この世のすべての生物の、守護の道であります。即ち、この合気道は、すべてを生かす羅針盤であります。
そして、この今日までの武技を産み出して来た、武産の現れであります。そしてその生れてくるところの武は、万有の生成化育の法にして、万有の生長を守る法であります。

なんとなくイメージが伝わってきますが、即ちってどのあたりが即ちなのか、理解に苦しみます(笑)


開祖は、まったく「なぜ」をおっしゃらずに、断定的に並列で並べられているだけです。宗教者の言葉ですね。理屈ではなく、まず信じよと。

武産合気に限らず、信じる信じない以前に、開祖の言葉を理解できたと公言されている直弟子の先生方は、少なくとも書籍等では皆無だと思います。



何をおっしゃってるのか分からなかった。だから、言葉を解釈しようと探求しながら稽古している。例えば、開祖と同じ大本教の信者で万世館をお作りになった砂泊誠秀先生は、武産合気に関する言及はありませんが、そんな書き方です。





武産合気とは無限の技が生まれてくる状態


武産合気道』という技術書の基礎技術編1で、斉藤守弘先生はこうお書きになっています。


最近、「武産合気」という言葉が口にされているが、この意味を理解している者はわずかのようである。「武産合気」とは、合気道の原理を研鑽することにより無限の技が生まれてくる状態をいう、つまり実技の問題である。
体術および剣杖を含む合気道稽古では、区別をはっきりして稽古をしなければならない。すなわち、 一教と二教、表と裏、基本技と気の流れにおける区別、段階的な稽古、関連技の研究、それらからの応用技である。 最近のイタリア旅行で自分に可能な限りの技を試してみたところ、基本、気の流れ、変化技、応用技など400種の技が簡単に出てきた。さらに座り技や半身半立ちも加えればおそらく全部で600技ちかくになるはずである。
武産についていかに名文を並べても、実技が伴わなければ指導者の資格はない。基本からもっとも高度な技まで、無限の合気道技を産み出していくには、正しい伝統的稽古で修練を続けることが大切である。

この文章は、とても分かりやすい。

「武産合気とは、無限の技が生まれてくる状態」で、そのためには「伝統的稽古で、基本から応用技までを区別して修練し、合気道の原理を研鑽することが必要」と言い換えることが出来るかと思います。

納得しやすいです。


「いかに名文を並べても、実技が伴わなければ指導者の資格がない」は、「武産合気」の解釈はどうでもいい。実際に、無限の技が生み出せるか。という苦言も付け加えられています。

しかし無限の技が生み出すための「伝統的稽古」の全体像は、斉藤守弘先生しかご存知ないのではないでしょうか。


ところが『武産合気道 基本技術編1』では、技以前の基本の稽古法としては、体の変更/諸手取り呼吸投げ/座り技呼吸法が6ページあるだけです。あとは一教から始まる基本技の型になっています。



うーん「伝統的稽古」とおっしゃるなら、例えば斉藤先生が開祖と一緒に稽古された横木打ちなどの「鍛錬法」などにも言及する必要があるのではないでしょうか。

型をどれだけ繰り返したからと言って、それが技として有効になるかどうかは、別物のはず。技術ではなく、体を練ってつくるのが、型の稽古で十分だとは、私には思えないのですが。





開祖はいつから「武産合気」を言い出されたのか?


武産合気道 基本技術編1』の「発刊にあたって」は、編者のスタンレー・プラニンさんがこう書かれています。


合気道は、いまや世界主要国の文化の一つに組み込まれ、当然ながらさまざまな合気道解釈がなされています。合気道の起源に関する知識がないと、開祖植芝盛平が創始し、広めた本来の合気道を正しく見分けることはむずかしいと言えるかもしれません。
開祖は戦後、茨城県岩間町で完成した武道を「武産合気道」と命名しました。 この岩間の地で開祖に23年間つかえ、薫陶を受けられた斉藤守弘師範こそ、「武産合気道」を全世界に伝えるにふさわしい方であると私は思います。

大筋で納得するのですが、「開祖は戦後、茨城県岩間町で完成した武道を“武産合気道”と命名」には、えっ!?と思いました。

斉藤守弘先生が『武産合気道』と名乗られたと思っていましたが、開祖が命名されたとは。



スタンレー・プラニンさんは、斉藤守弘先生の古参の弟子で、合気ニュース(現・どう出版)社長。私はプラニンさんの合気道研究の仕事がなければ、合気道の歴史はほぼ藪の中だったと思います。

そういう意味でとても信用している方なのですが、「開祖は戦後、茨城県岩間町で完成した武道を“武産合気道”と命名」は、この文章以外では見たことがありません。


「発刊にあたって」は、1994年5月とあります。開祖が亡くなったのは1969年4月なので、25年ほど経っています。スタンレー・プラニンさんは、1978年に日本に引っ越してきたようです。

なのでほぼ確実そうなのは、「武産合気道」のワードを植芝盛平先生から直接聞いたのではなく、斉藤守弘先生から教えられたのだろうということです。



「戦後、茨城県岩間町で完成した武道を“武産合気道”と命名」をそのまま信じるなら、「武産合気道」は昭和20年・1945年以降ということになります。


後述しますが、『武産合氣』の出版自体は、昭和61年(1986年)。開祖が内容を口述されたのは1950年代の後半と推測されますが、それまで武産合気のワードは、公には出ていないようです。

1945年から1960年ぐらいまでの間に、開祖の考え方がどう変化したのでしょうか。





武産合気は古事記からの影響?


植芝吉祥丸先生が「武産合気」に言及されている文章があります。『合気道開祖 植芝盛平伝』という植芝吉祥丸先生の著書にあるそうですが、残念ながら私は持っていません。

なぜか合気道にも造詣が深い、大東流合気柔術の大宮司朗師範が著書『開祖 植芝盛平の合気道』の中で引用されています。


昭和十七年、健康状態や戦局の悪化などから、妻のはつとともに離京。昭和十年頃から少しづつ購入していた茨城県西茨城郡岩間の地に赴く。“武農一如”の実現を目指し、“合気苑”の名のもとに、新た開拓と合気神社の建立に勤しむこととなる。
昭和十八年、合気神社建立。 昭和二十年の終戦直前には、旧茨木道場の原型である合気修練道場が完成する。合気神社の建立は、翁にとっては、天村雲九鬼竜王をはじめとする「合気道を武産し、守護しつづけてくださった四十三神への御礼」であったという。
その頃翁は、前述の言霊学者で、「古事記」研究の大家である中西光雲との交流を何よりの楽しみとしていた。それと符合するように、吉祥丸師範は、「開祖のいわゆる、『武産合気』なる発想は、「古事記」によるところきわめて大なるものがあったように思う。また号を、それ以前の植芝『守高』から『常盛』に改めたについても、「古事記」の影響があったと聞いている」(合気道開祖植芝盛平伝)と 述べている。
終戦後、東京の皇武館道場は幸いにして戦火は免れたものの、道場を罹災者に開放していたため稽古は行なわれず、復員してきた門人達は、岩間の地に翁を訪ね、稽古を受けた。


古事記研究の大家である中西光雲とはどんな交流なのかと検索してみると、「交流を何よりの楽しみとしていた」どころか、四十三神を降ろしていたようです。

想像ですが、実際には合気神社を建立される前から神憑ろしをし、そのときに『武産合氣』にあるように、天叢雲九鬼さむはら竜王大神が降臨され『我は植芝の血脈にくい入りくい込んでいるぞ』と言われ、そして合気道の守護神だと分かり、合気神社を建立された。という順ではないでしょうか。



まああの、『武産合氣』に書かれていることは、すべて神憑ろしが元になっています。

直接的なところをいくつか抜粋すると

「猿多毘古大神が皇大御神のみ言をもち、私に武産合気が下ったのです」

「大神より頂くごみいずのお取次ぎのようなものです」

「武産とは絶倫の日本の武である。しかれば神変自在、千変万化のわざを生みだすのである」



しかしそれを信じた直弟子がいらっしゃるのかといえば、前述の通り、公になっている方はいらっしゃらないかもしれません。

植芝吉祥丸先生にしても「開祖のいわゆる、『武産合気』なる発想は」という言い方ですから、かなりクールです。斉藤守弘先生が『武産合気』を熱く語られても、おふたりとも開祖の神憑ろしにはまったく触れられていないようです。





武産合気とは神懸かり状態から生まれる?


1952年に、合気会大阪支部道場を開かれた田中万川師範が、『植芝盛平と合気道』の中で、スタンレー・プラニンさんのインタビューに答えられています。

順序が逆ですが、まず神様の話から。


大先生は、言霊ということをよく言われました。先生は言霊を大本教で勉強しておられる。出口王仁三郎の本を読んで言霊を勉強された方です。しかし大先生の宗教が大本教と言うけどそうではない。
大先生はよく言われました。「わしは、ここらの神様とは違う。「天地創造之神」を神としてやっている。わしの守護神は天の叢雲九鬼(アメノムラクモクキ)さむはらの龍王だ。その化身である」と。
または、「猿田彦大神の化身じゃ」ということもよく言われた。大先生は大本を信仰しておられたけれども、元主の神だと言われる。大先生のは神は神でも天地創造の神、これがなかったら合気道にならない。

田中万川師範は、こういう話は「大先生から耳にたこが出来るほど聞いています」とおっしゃっています。

合気神社は四十三神への感謝だとおっしゃるぐらいなので、天の叢雲九鬼さむはらの龍王や猿田彦大神や、他の神々が、開祖に憑依したり、合気道を守護していると言われても驚きませんが、だけどそれを信じろと。


そう、『武産合氣』にも「信仰の徳がなければ、武産合気はできない」とあります。

武産合気を言う方々には、ここが抜けています。

斉藤守弘先生は「実技の問題だ」とおっしゃっていますが、植芝盛平先生のおっしゃり方は、むしろ逆です。




武産合気と鎮魂帰神の関係


多くの合気道道場で、振り魂や舟漕ぎ運動が行われていると思います。舟漕ぎではなく「鳥船の行」とも言うと思いますが、古事記ではイザナギとイザナミの間に生まれた神様の名で、神が乗る船を指しているそうです。その行なので、そもそも宗教的なの修行法です。


振り魂(ふるたま・たまふり)は、古神道では鎮魂の前段階で行うもので、神憑かり状態を作るものだそうです。



ちなみに養神館には、それらの行法はありません。初期には舟漕ぎ運動を行っていたようです。


ない理由は定かではありませんが、例えば塩田剛三先生は、植芝盛平先生が心酔されていた大本教の出口王仁三郎氏のことを「ありゃあ、ウソだ」と言われていたぐらいですから、想像はつきます。





鎮魂帰神について、大本ではどうだったか『教養としての神道』には、こうあります。

神道といってもさまざまですが、この本は網羅的に重要な出来事を押さえて書かれています。これだけ俯瞰的な神道本は、そうないと思います。



出口王仁三郎は、出口なおが最初に神がかってから6年後の1898年に綾部のなおのもとにやってきた。(中略)
王仁三郎は20代前半に各地を歩いて武者修行をした。高熊山という山に籠もって祈る修行を、本田親徳の霊学を継承する長澤雄循らが組織し、鎮魂帰神という憑依儀礼を行う静岡の稲荷講社というグループと関わりをもったりしている。1898年に出口なおのことを聞いて、なおのもとを訪れ、そこで求めていたものに出会う。悪と立ち向かう宗教としての大本の神のメッセージが王仁三郎の心に響いたのだ。
なおに従う信仰集団に加わった王仁三郎は、なおの信仰集団には欠けていた教義的な言葉を持ち込み、組織化を進めていく。信仰活動としては「鎮魂帰神」の行によって大きな変化をもたらした。男女を問わず信徒に神がかりを体験させ、霊界の実在を強く信じさせるのだ。

鎮魂帰神とは、神憑かりになるための行なのです。出口王仁三郎が信徒に体験させたということですから、当然開祖も行われたのでしょう。

『武産合氣』には、鎮魂も鎮魂帰神も数多く出てきますが、たぶんこの手の行法は、意識を抑えて、無意識を露出させることにあるのだと思います。トランス状態や変性意識に入る方法だと言っていいと思います。


世界中の宗教的な踊りの多くは、トランス状態になるための手段として使われているでしょうし、苦行といわれるものも同様でしょう。

入り方やその程度はさまざまだと思いますが、マインドフルネス・瞑想や座禅などでも、変性意識と言われたりするようです。洗脳への入口としても使われます。

振り魂や舟漕ぎだって、それに入るための方法という側面もあるのです。





武産合気と鎮魂帰神の関係


変性意識とは、ざっと言うなら、通常の覚醒状態ではない意識のこと。

しかし、そこから無事に帰って来れるでしょうか? 昔からある行法だって、専門に指導できる人はとても少ないそうです。行ったきり、帰ってこれない人もいるでしょう。

後のことには関知せず、方法を教えることをビジネスにしている人は、急激に増えていると思います。



以前、音声SNSである著名な格闘家の方のルームに参加していました。スピーカーにもなっていたのですが、内容はとても有益でした。

ただ、毎回のように終盤には変性意識の話になるのです。自分が変性意識状態になることで、相手の認知機能を書き換えるとか・・・ その手のことを追求している人たちが多くて、驚きました。そして終わりに感想を聞かれるので、ヘキヘキして3回ほどで逃げました。

全否定ではないのですが、どうしてもスピリチュアル方向へ行きます。私はそんなこと求めてないですし、なにより変性意識をビジネスにしている人たちには、あまり近づきたくありません。



自分が変性意識状態になれば、とても強くなる。というのは、あると思います。たぶん昔の剣豪や伝説の武道家や格闘家は、みんなそうでしょう。通常の覚醒した理性的な意識で、相手を殺すなんてできるはずがありません。



神降ろしも、神を信じる信じないは別にして、変性意識状態。

開祖の場合は、神憑かりから通常の覚醒状態に戻っても、四十三神から合気の技を授かったと信じられてたのは間違いないと思います。信じ切っていなければ、『武産合氣』の内容を語られるはずがありません。


※写真は『武産合氣』から


ところが開祖の場合は、相手を殺してやろう傷つけてやろうとは、たぶん考えられていません。『武産合氣』には「合気は、愛だ」と出てきます。

鎮魂帰神が私の想像通りだとすれば、顕在意識の働きを抑え、潜在意識のリミッターを外しても、そこから出てくるものの大半は、それまでに自分が体験したこと、学んだこと、考えたこと、信じ込んでること。開祖の場合、その個別ストーリーはともかく、すべてが愛で包まれていたのかもしれません。



そうでなければ、最初に引用した「合気道とは、真の武であり、愛のみ働きであります。この世のすべての生物の、守護の道であります」のような大仰にもほどがあることを言えるはずないと思います。


真面目に聞いてたら「ヤバい人だ」と逃げたくなります。それでも多くの直弟子の先生方が、それほど開祖の神様の話を信じていないのに、逃げださず、修行されていたのだから不思議です。

それはやはり開祖の顔、佇まいが、もしかしたらあるのかもねと思わせたのかもしれません(笑)




そして斉藤守弘先生がおっしゃる「武産合気とは、合気道の原理を研鑽することにより無限の技が生まれてくる状態」も、鎮魂帰神の文脈から解釈できそうです。


宗教的な踊りの多くがトランス状態になるなら、そこからの踊りは台本や手順のない、自動生成される動きではないでしょうか。

あえて生成という言葉を使ったのですが、このところ生成AIが流行です。著作権問題からディープラーニングさせる対象が問われていますが、高品質に生成させるには、広く学習させることが必要なのです。とはいえ生成されたものは「どこにもないもの」ではなく、「学習したもの」からのコラージュ・組み合わせ。それを破綻なくまとめ上げている精度が上がっているのです。

同様にトランス状態になりさいすれば、見たこともない動きや技が自動生成されるわけではないはずです。



本質的に武道は考えていると遅いし、型に嵌った動きだと裏をかかれるので、究極的には無意識に反射で動くことが必要。そこまで行くなら、どうしても変性意識になることが必要かもしれません。


田中万川先生に「守護神は天の叢雲九鬼さむはらの龍王だ。その化身である」とおっしゃったのだから、開祖は神の化身であると信じられていた。それが日常なら、鎮魂帰神の変性意識状態のままで、戻られていないということになります(笑)





開祖は神の化身だと信じられていたのか


直弟子で、開祖を神だと信じられていた方は、少なくとも公にされている方はいらっしゃらないと思います。

ところが、植芝吉祥丸先生が『植芝盛平と合気道』でこんなことをおっしゃっています。

引用します。


植芝盛平という人を偶像視して、オールマイテイだとか神様だとか思っている人がよくあるのですが、一生懸命業をする上においては結構な話です。しかし人間である限りはオールマイテイという事はないのですから、やはり植芝盛平が合気道を、どんな苦労をしてどの様にして掴んでいかれたかという事を学び、それによって自分なりの合気をする。そして、自分なりの良い個性を引出していく事が合気道では最も大切な事だと思います。
合気ニュース)ご著書「合気道開祖 植芝盛平伝」の第一章でも大先生を神とし、そして先生の技を神技として見なすような風潮に対し、それは危険だという風におっしゃられてますね。
やはりある程度はそれは神技には違いないし、なかなか大変なものです。日本ではいわゆる神というものは、何にでも神が宿るということで、唯一、一神教ではないですからね。だからそういう意味で武道の神様だ、合気の神様だ、これはもちろんそうです。しかしすべて何でもかんでもオールマイティにしてしまうことは非常に危険です。ちょうど大東亜戦争で日本が何でもかんでも神国だという事にしてしまった点が、この様な事になったわけです。そういう事ではなくて、合気道の本来の在り方というものを、植芝盛平先生といういわゆる者が、いかに苦労して掴んでこられたか、そしてこれをどういう形で、私どもに使用させようと、どのような道を作り、レールをつけてくれたかという事、これを理解する事が大切だと思うのです。


凄く真っ当で、巧みなロジックだと思います。

私は素晴らしいと思います。


神技だ、武道の神様だ、合気の神様だというのはいい。でも神として扱うのは良くない。人間である以上、オールマイティではないとおっしゃっているのですね。

八百万の神々というのは、日本の古来からの考え方、というか感性。森羅万象に神を感じる、神性を感じるというもの。ざっくり言えば、人間が森羅万象を支配しているわけではない。すべてを理解できるわけではないから、謙虚なであれと翻訳してもいいと思います。

しかし、だからといって人間を神格化し、オールマイティな存在だとしてしまうのは危険だとおっしゃっているのですね。


でも、植芝吉祥丸先生が著書やインタビューで繰り返し懸念を表明されているということは、それだけ開祖=神としている方々が多かったということですね。





晩年の開祖の技はどう変わったのか


いったん神憑かりから離れます。


『武産合氣』の出版は、昭和61年。ですが元は白光誌という新宗教の機関誌に昭和33年から36年に掲載されたものですから、1950年代の後半に開祖が口述されたものだと推察されます。

1950年代後半に、開祖の口から武産合気が出てきたなら、具体的に技はどう変化したのでしょうか。



前述の『植芝盛平と合気道』では、田中万川師範に、スタンレー・プラニンさんが「戦前と戦後の植芝先生の教え方には何か違いがありましたか」と聞かれています。


そこのところを引用します。

田中)大先生の技が変わって来たのは、昭和三十五、六年頃から。技が丸くなってきた。今まではあまり丸くなかった技が、だんだん丸くなってきた。
合気ニュース)技の内容も違っていたのですか。
田中)技は変わらないねぇー。技というのは何万とあるのだからね。いくつでも産み出していける。だから、「技を習ったら十も二十も産み出せ」ということを言われました。 二十習ったら何百と出来るのだから技は行き止まらない。

昭和35年ぐらいから丸くなってきたなら、開祖がお亡くなりになる10年ほど前から変化してきたということですね。1950年代後半ではなく、1960年代ということになります。

しかし丸くということだけなら、開祖のご年齢は70歳代後半。丸くなるのは、年齢的にも普通のことのように思えます。


技の数は考え方ですが、最後に抑えること投げることを方法として数えるなら何万ではなく、百もないかもしれません。そこに、まず相手の攻撃方法、それに体捌きや当身や崩し方を掛け合わせれば何万にだってなりそうです。

だから「技を習ったら十も二十も産み出せ」は可能だと思います。

しかも「産み出せ」ですから、これが武産合気の意図だとしてもおかしくありません。



考え方ですが、合気道の技は名称が具体的です。一ヶ条ニヶ条、一教二教、小手返し、四方投げみたいなのは、かなり単純な技名です。多くの武道では、けっこう難しそうな名前をつけていたりします。

技名に関して、知り合いのある武道の師範が、こう言っていました。


初歩的な技ほど名前が具体的なんですよね、イメージしやすいというか分かりやすいというか。定型的な動きなので覚えやすい反面、対処されやすいですが。
上級の技ほど抽象的な名前になって、ひとつの動きが相手との絡みで千変万化します。

ああ、なるほどと。

合気道の技で名前が付いているのは、初歩的な技だと言えるかもしれないです。技の形が乱れると主張して、事細かく動きを守らせるのは、初歩の動きをずっとやっているのかもしれません。

本質的に「相手との絡みで千変万化」するのが武術なのに。



というか、以前『合気道には固い稽古と流れの稽古がある? その分岐点を辿ってみると』で書いているように、そもそも植芝盛平先生が教えられる合気道に型はなかった。なかったというかざっくりとした方法しか示されなかった。

これでは習得が難しいと、普及のために合気会では植芝吉祥丸先生が、養神館では塩田剛三先生が中心になって型をお作りになった。


型がなかったところに型が作られたので、植芝盛平先生の合気道のあり方から変質してしまうの当然です。その結果、いわばデジタル機器や車でいうところのエントリーモデルを、標準として守り続ける、正解として守らせるような弊害が出てきそうです。

特に養神館では、他の流派より、はるかに型の決まりごとが多いので、上級になるほど弊害が大きいかもしれません。





技が変わっていないと怒られるとは


昭和44年に合気会田辺道場で指導を始められた五味田聖二道場長は、合気ニュースNo.135号でこう語られています。内容からすると指導を始められる前、昭和40年前後のお話かと思います。

開祖がお亡くなりになったのは、1969年(昭和44年)です。


大先生が来られると、みんなの前で技をされるでしょ。それで、今度はみんなでする。質問したいのですが、聞きに行くと、「わからんか? そうか!」と言われて、別の技をされるんですよ。ほんまに聞きにくうて(笑)。 逆に聞きに行かないと、座り技の一教だったら一教ばっかりやらされるんです(笑)。 四方投げだったら四方投げばっかりとか(笑)。もう、そんなんばっかりだったです。
それで、これを覚えておきなさいと言われて、大先生は田辺を去られる。3、4ヶ月くらい経って大先生が来られたとき、その技をやっていると、「爺は、そんなことを教えていない」と言われるんですよ(笑)。
(合気ニュース)ぜんぜん技が違うんですか。
違うんです。 四方投げでも全部同じなんですけど、今日やった技と、明日やるのは、技が変わってなかったら進歩がないと、よく大先生に言われたんですよ。だから先輩たちは 大先生の言葉を理解するのに苦しんでいました。

※合気ニュース社のバックナンバーにもないようですし、Amazonにも出ていません



この難解な「四方投げでも全部同じなんですけど、今日やった技と、明日やるのは、技が変わってなかったら進歩がない」とは、どういうことでしょうか。

合気会なので、四方投げは投げっぱなしだと思いますが、受の腕を畳んで倒す術理が四方投げということであって、そこに至るまでの体捌きや崩しはどんどん工夫して変えていけということでしょうか。手順や形ではなく、別の何かということでしょうか。


たぶんほぼ同様の内容で、塩田剛三先生の記述があります。詳しく、理解しやすいかと思います。





まったく同じことは一度しか起こらない


塩田剛三先生は著書『合気道修行』の中で、こう語られています。

いわば、養神館で型をお作りになった理由です。



先生がいつも口にする言葉に、「覚えて忘れろ」というのがありました。
たとえば、相手が正面を打ってきたのを四方投げで投げるとします。 一度目にやってみてうまくいくと、次にもそれと同じように技をかけようとするものです。ところが、相手の体の位置や勢い、力の出し方は、最初のときと微妙に変わっています。なのに最初とまったく同じ動きをしようとすれば、無理が生じることになります。
相手の状態の変化に応じて、こちらの体の動きも、その場に最もふさわしく変化していくのが本当なのです。
ひとつの出来事というのは、その一瞬にしか存在しません。まったく同じことは二度と起こらないのです。その一瞬一瞬をつかまえて最もふさわしい対処をすれば、すべてはうまくいきます。「それをつかまえられないようじゃ、武術はできん」と、先生は常々おっしゃってました。
つまり「覚えて忘れろ」というのは、前がこうだったから次もそうしようというのではなく、そういうこだわりを一度すべて忘れ、まったく新しい状況に対処するつもりで技に取り組めということなのです。そして、手順ではなく、"一瞬をつかまえる"感覚を身につけていけというわけです。
ですから本当は、今やってるみたいに、足をこの位置に持っていって、手はこの位置に、などと細かく手順をきめていくのは、武道の本質から離れているとも言えるのです。しかし、私も今でこそ、こういうふうに植芝先生が言わんとしたことを理解できるようになりましたが、当時は何が正しくて何が間違っているのかわからず、チンプンカンプンなまま、稽古を続けるしかありませんでした。
これでは、本当に素質のある人しか、先生の武道の本質を身につけることができません。植芝道場においては、できる人はできるのですが、できない人はまったくできないという状態でした。

これだけ書いてあれば、説明はいらないと思います。


そもそも植芝盛平先生は、型を定める弊害を認識されていて、ご自身の指導では「覚えて忘れろ」ですから型への依存を壊す方向に持っていかれたのだと思います。

それは前提として、大衆化させようとはされていなかったから。武術の本質は、一瞬をつかまえて対処することだから。


そう考えてくると、斉藤先生のおっしゃる「武産合気は無限の技が生まれてくる状態」の前提は、早くから開祖が持たれていたのではないか、と推測できます。

塩田剛三先生は戦後に岩間の合気苑で生活し、開祖に学ばれていますが、上の文章では「植芝道場で」とお書きになっていますので、戦前の皇武館のことかと思います。不思議でもなんでもなく、それが武術の本質の本質だからです。


そして決まった手順の型に嵌めようとするのではなく、多くの技を身につけた上で一瞬一瞬のアドリブで行け! そうおっしゃりたかったのではないでしょうか。



いや正直なところ開祖のおっしゃりたかった「武産合気」は、合気道はみそぎ。神様を信仰し霊的な勉強や修行もし、鎮魂帰神を行って、無限の技が生まれてくる状態になれということだと思います。

しかし開祖の没後、そんなことができた方はいらっしゃったでしょうか。

鎮魂帰神に挑戦された方はいらっしゃったかもしれませんが、それで技が進化したかどうか。なにか成果を公言されている方は、たぶんいらっしゃらないですよね。



いらっしゃらないなら斉藤先生のおっしゃるように、「武産合気は基礎から高度な技まで、合気道の原理を研鑽することによって無限の技が生まれてくる状態」として、一瞬一瞬をつかまえて最もふさわしい対処できることを目標に稽古すること。

それが「武産合気」だと解釈していいんじゃないでしょうか。


まさに「武産についていかに名文を並べても、実技が伴わなければ指導者の資格はない」です。










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