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【上達論】意識することのジレンマ


上達論-稽古風景

【Don't think. feeeel!】

前回、姿勢と脱力について書きました。くどくどと書いておきながら、最後にはDon't think. feeeel!だとか矛盾した展開。だけど、そこには矛盾じゃないんです。

姿勢に限らず、流派の動きについて正確に知っておくことは必要です。特に初心者の間は、理由が理解できなくても、求められる動きをキッチリ再現できるようになることが必要です。

それができた上で、「自分の自然な姿勢、動きになっているかどうかを感じとる」こと、そして「相手の状態を感じとること」が、養神館の場合は、特に重要だと思うのです。

【意識することの欠陥】

その前回のブログ『脱力と姿勢の関係性のマニアックな話』で書いていることですが、脱力の方法には様々な方法やコツがあります。でもそれは、その感触を憶えておいて、技の中で再現できるかどうかが問題です。

「ちょっと待って。今脱力するから」なんてことは、稽古の階梯としてはありですが、身についたとは言えません。ふわっと手首を持たれて、ふわっと脱力するのも、武道の技術ではないでしょう。

ガッチリ持たれて、それでも力を抜けるのが習得であって。

いや、私も偉そうなことは言えません。なかなか難しいです(笑)

脱力しようと脱力脱力と念じたら、逆に力が入ってしまいますよね。

たとえばヨガで屍のポーズとも言われる「シャヴァーサナ」。薄暗くてムーディーな音楽がかかっている部屋で行えば、即寝落ちしてしまうぐらいに脱力できるのも当然です。

副交感神経が優位になるように、心拍数や血圧を下げるポーズだそうです。

しかしこの脱力を稽古のときに、あるいは万が一のときに再現できるでしょうか。

普通に考えれば、副交感神経優位な武道の稽古ってあり得ないでしょう。合気道ではリラックスが大切だといっても、何かコトがあったときに冷静でいられるかどうか。もし稽古でずっとリラックスしていたとしたら、逆に急激な緊張があったときに対応できるかどうかです。

稽古のあり方に対する考えは様々だと思いますが、どうでしょうか。

【自律神経はコントロールできる?】

合気会からフランスに派遣され、ヨーロッパでの合気道普及に尽力された田村信喜先生がこんなことをおっしゃっています。

『続 植芝盛平と合気道』から抜粋します。

 

大先生の剣のお相手をしているときに、ふと、もしいま斬ったら斬れるのでは… と思ったのです。その瞬間、大先生の目がかっと見開かれ、ぐっと睨まれたことがありました。こちらで悪い気を起こすとそれが大先生のお心に、すっと映るようでした。

 

塩田剛三先生も同じようなエピソードを語られています。お出かけになった列車の中で、鉄扇を渡され「隙があったらいつでも叩け」と言われた。寝たなと思って叩こうとすると、目を覚まされて「今どこじゃ?」とおっしゃる。

みたいな話でしたので、植芝盛平先生に、察知する特別な能力があったのは確かなのでしょう。

でも「大先生の目がかっと見開かれ、ぐっと睨まれた」のなら、典型的な交感神経の働きです。

そもそも副交感神経が働くのは睡眠、食事、休息、排便排尿時などで、運動時は交感神経が働くのだそうです。合気道をしている人には、あまりに味気のない話でうんざりされるかもしれませんが、たぶんそういうことなのでしょう。

交感神経は心臓の鼓動を早くし、血圧を上げ、筋肉の血管を開きます。逆に皮膚の血管は収縮させ、ケガをしたときあまり出血しないようにします。そして瞳孔は光が多く入るよう開くのだそうです。

だからといって「リラックスなんてできるわけない」と思っているわけではなく、程度やバランスの問題かもしれません。医学的な根拠は分かりませんが、交感神経の働きを過剰にしないということではないでしょうか。

屍のポーズのようなリラックスではないけれども、かといって興奮状態でもない。あるいは、交感神経をすぐに抑制できる状態ではないかと、勝手に思っています。

実際、ストレスマネージメントなどは、呼吸の仕方で心理状態を変えるといいますが、自律神経をコントロールしているのではないでしょうか。

【コントロールできることを増やすのが稽古】

意識してもダメ。自律神経をコントロールするとか、やたらと小難しいことを書いていますが、何を言いたいかというと、バランスだし段階だし、ということです。

たとえば簡単なところで、原則として「脇を締める」ということが多くの武道で言われます(脇を開けても骨格的に強い体勢はありますが、それは例外的)。

とにかく「脇を締める」ことは、意識にも身体にも染み付かせることが必要です。

でも技の途中に「脇を開けない脇を締める」を意識していると、他のところがおろそかになってしまいがちなのです。結果、技が掛からない。

また脇を締めようと、ギュッと力んでしまいがちなのです。

養神館なら、まず大原則は全身の動きが一致した中心力。「脇を締める」は中心力の一部分でしかありません。

じゃあ、どうすんのって(笑)

養神館の場合、正解は簡単です。

基本動作-単独 →基本動作-相対 →基本技の階梯です。

基本動作を単独で力みなく、正確に行うこと。実際のところ、団体や先生によって、若干の動きの違いはありますが、それは技になったときの考え方の違いかと思います。ただ、核としての基本動作は、それほどちがいません。

そして今度は、相対で、単独と同じようにできるようになること。基本動作は技ではないので、ギュッと持ったりはしません。それでも持たれただけで、そこを意識してしまうし、それなりに重みがかかります。

それでも持たれたところを、できる限り意識せず、正確に動けるかどうかを稽古します。

もちろん相手が違えば、重さや高さ距離なども変わってきます。それでも正確に、安定して動けるかどうか。

相対で、それなりに正確に動けるようになれば、もうそれだけでかなり中心力を発揮した動きができるようになっています。

そして次は、基本動作に関連した技。ほとんどの基本技は基本動作の組み合わせです。

技でギュッと持たれても、力まずに動けるかどうか。力んだかどうかは、本人が一番良く分かっているはず。

この基本動作-単独 →基本動作-相対 →基本技 を繰り返すだけで、間違いなくかなりのレベルまでできるようになっているはずです。

あれ、自律神経はどうなった? と言われそうですね(笑)

医学的にはどうなのか分かりませんが、基本技を概ね力まずに正確に行えるようになれば、呼吸も詰めずにできているはずですし、過剰な交感神経優位にもなっていないのだと思います。

そしてこれらは、心身の健康や身のこなしなど日常にも通じることだと思います。

【憶えて忘れろと開祖はおっしゃった】

どこで読んだのかちょっと探せませんが、植芝盛平先生は「技は憶えたら、忘れろ」とおっしゃったとか。塩田剛三先生は、著書の中で「植芝先生は昨日やったことと今日やることがまったくちがう。これだと初心の者は憶えられないので、養神館では型を作った」とおっしゃっています。

たぶん開祖は、一教や四方投げ、小手返しなど、技はあっても、流れやディテールは常に変化していたのでは、と思います。それが技を無限に生み出す武産合気。どこかに捕らわれていたら、変化できません。でもベースになる技はある。

武産合気は最終的な目標だとしても、通常の技でも、どこかだけに捕らわれて動くのは合気道ではない。ということなのだと思うのです。

禅問答みたいですが(笑) 

矛盾でもジレンマでもない。

本来、たぶん型はない。でも一定水準までは、型はとても重要。

養神館の場合は、基本動作-単独 →基本動作-相対 →基本技という階梯があって、迷ったらそこに戻る。です。

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