BIトップ外ヘッダ.jpg

武道のススメ! 合気道のススメ!

May 3, 2019

 

 

今時なんのために武道武術を学ぶか

 

先日、Twitterで知り合いがハッシュタグ[今時なんのために武道武術を学ぶか]というお題で、「どんなに生活環境が変わっても自分自身を見失わないための、船のアンカーみたいなもの」とツイートしていました。
いやもう、まったくそう。私はそんな風に考えもしなかったですけど、じゃあどうして続けてるんだろうかと自問してみました。


そしたら、なんのためにやっているかよりも、やっていない自分を想像したら、ゾッとしたのです。
フィジカル・メンタル両面で、武道を、合気道をやっていなかったとしたら、現在よりダメな自分しか思い浮かびません。現在がそれほど動けるわけでも、精神的に柔軟で強いというわけでもありませんが、やっていなければ今より劣るのは、間違いありません。

 

 

基準は過去の自分。それよりマシかどうか

 

現在私は58歳。20代前半で結婚し20代半ばで子供が生まれたのに、30代前半まで家庭を顧みず、仕事ばかりしていました。家に帰って来たときにはもうぐったり。ひどいときには、休みが月に3日しかないという時期もありました。振り返ると疲れてばかりいてサプリなどを飲んだりマッサージに行ったり。仕事が大切なのは当たり前ですし、生きていくにはお金を稼ぐ必要があります。でも、そんな仕事の仕方をずっとしていたら、どうなっていたでしょう。

考えただけで、ゾッとします。


そのころの自分と、もし現在の自分が格闘したとしたらどうでしょうか。自分では、どんなルールであっても58歳が圧勝すると予想します。

誰かと競うのではなく、あくまでも自分対自分です。どっちがマシかという当社比みたいなものです。


あらゆる武道が、過去の自分と現在の自分との対決だと思います。そもそも私、人とあまり競争したくありません。競争は誰かが作ったルールの中で、争うだけ。ルールが変われば、何もかも変わってしまう。だからルールは、変える側に回ろうとする人たちが熾烈なゲームチェンジ競争をするし、抜け道を探したり裏で基準を操作したりするのです。

 

そこに絶対的な価値を求めるより、自分の基準。現在と過去の自分を比較して、さらに未来まで考えたら、あらゆる面で、続けている自分の方がまだマシ。基準点が過去の自分だから、勘違いしたり美化しない限り、確実です。

 

 

40代後半のころにこんなことがありました。会社で20代のふたりから[今時なんのために]じゃないですが、いろいろと武道のことを聞かれていました。
そこで私が、「じゃあ会社から渋谷駅前まで走って、較べてみる?」と提案しました。私は革靴のまま、君たちはスニーカーのままでいいよと。渋谷駅までは、信号四つほどです。実際にはやりませんでしたが、このふたり相手なら私には絶対的な自信がありました。短い距離のダッシュで人混みの中を、ぶつからずに走り抜けるなら大丈夫だと思っていました。
ふたりからすれば、だから何だよ? かもしれませんが(笑)


私は競うどころか強い弱いにも、それほど興味はありません。強さだけを求めるなら、携帯すること自体が非合法な武器やグッズを持ち歩けよということになるでしょうし、戦争でもドローンやロボットなど攻撃する側の肉体が存在しないところに向うしかありません。万が一にも万が一な状況の強さを追求するなら、大規模自然災害に備えた方がはるかに生産的です。


「どんなに生活環境が変わっても自分自身を見失わないための、船のアンカーみたいなもの」という言葉が素晴しいと思ったのは、基準はあくまで自分自身にあるというところ。そして誰かと比較するのではなくて、環境が変化しても、基準が揺らがないのは武道武術のおかげというところ。とても共感できます。
言うことだけはすんごい人ならいくらでもいますし「へー(  ̄▽ ̄)」ぐらいにしか思いませんが、この人は学生のころからヤバい武術をやってる、ヤバい柔術師範。ぜんぜん重みが違います。

 

 


フィジカルがどう変わったのか

 

自分自身に基準があるということは、所属している団体とか組織、あるいは師匠がどうかということでもありません。私の場合なら、まず以前より動けるかどうかというところ。なんていうか短距離競走とかマラソンとかのようにタイムトライアルではなく、対人で動けるかどうか。対ミサイルではありません(笑) そして自分自身の動きをコントロールできて、相手をコントロールできるレベルが上がったか下がったかということ。

 

どう書けば伝わるのか確信はありませんが、誰かが作ったルールの中で優勝したとします。でもルールが変わってしまえば、最下位に転落するかもしれません。肉体を駆使する競技なら、年齢とともに肉体が衰えて、いずれ勝てなくなります。

イチロー選手にだって、引退があるのです。トップクラスじゃないと現役でいることは出来ないというのが、競技です。競技が悪いとは思いませんが、それがすべてに優先する価値観になると年齢に対する回答がありません。女性など体重や筋力で劣る人への回答がありません。

 

 

肉体的弱者への回答のあるのが武道

 

私が思う武道武術は、肉体的弱者のためのもの。すでに肉体的に強いのなら、技術なんて必要ありません。圧倒的なフィジカル差があると現実問題としては、どうにもならないのが当然ですが、何かしらの回答があるのが、武道武術だと思うのです。

 

どれだけフィジィカルを追求しても、上には上のフィジィカル強者がいるものです。それをどうにかしたいなら、海外のVIPやセレブのように武装したボディーガードたちに護ってもらうしかありません。どんな武道や格闘技だって、ルールじゃなくても条件設定があり、万能ではありません。


肉体的強者ではない。やっつけられないかもしれないけれども、それでも今よりはマシな自分でありたいと考えるなら、マシになる方法を見つけるしかありません。
若い女性たちは、どうして「男をやっつけたい」と思っているのか
 

 

 

年齢による肉体の衰えに対する回答がある

 

年々、いろいろと衰えます。


10代のころ、どうしてあんなに高く脚が上がったんだとか、トリッキーな蹴りができたんだろうかと、今でも思います。思いますがそれは若かったから。若いだけで、身体能力が高いんだと思います。問題は、今でも高く蹴りたいかどうかということ。現在の私は、生活の中で必要ないことには、ほぼ興味がありません。
筋力とか柔軟性、持久力となると、なんの証拠もありませんが、体の使い方となると現在の方が圧倒的に上手です。エンジンがいいとかガタイがいいとか、そういうことではなく動けるか動けないかです。スタティックなストレッチはしていませんが、立位前屈でそれなりに手の平は着きます。柔軟性ということよりも、股関節から曲げるのを知っているだけです。しかし何年何十年ものスパンで見ると、身体能力面で、この差が大きく開いてくるのです。

 

 

20代30代40代50代と、肉体や身体能力がどんどん衰えて行くのが当たり前です。でも私自身は、30代より40代、40代より50代の今の方が圧倒的に使える身体になっているし疲れにくくなっていると思います。このまま行けば、もしかしたら50代よりも60代の方が早く動けるかもしれません。

たとえばちょっとした切り傷にも、治るのがどんどん遅くなっています。受け身の際のダメージも、年々強くなっていると思います。

だから生物としては、どんどん衰えているのは間違いないのですが。

 

 


ところが週五で稽古して疲れたとしても、翌朝には元気です。電車では基本立っていますし、立っていることで鍛えられたり、ゆるんできたりすることを楽しめます。渋谷のスクランブル交差点でも駅の構内でも、ぶつからずにすいすい歩けます。長時間パソコンに向っていて、あちこちに凝ってきても、ほとんどの場合、もぞもぞと自分でほぐせます。だからマッサージに行ったりサプリを飲むこともありません。

内蔵がどうかということではありませんが、自分の身体の状態をかなり感じ取れて、なにに原因があったかも、そこそこ理解できるようになってきたからだと思っています。
というか、自分の身体の状態に敏感になってきたから、日常のどんな場面でも稽古にしてしまうのです。稽古というと大げさですが、勝手にそうなってしまうのです。

 

 

 

武道でまず追求するのは、無理や無駄のない動き

 

先日、こんなことを聞かれました。合気道を数年やっている人なのですが、演武会の様子を家族に動画撮影してもらったそうです。その映像を見て、自分の動きの遅さに愕然としたというのです。瀬川さんは同い年ぐらいなのに、どうしてそんなに早く動けるのかと。そりゃあまあ年期が違うってと(笑) それと合気道だけではありませんが、武道武術をやることによって、何が合理的な動きかを理解できてきて、それなりに自分の身体で実践できるようになってきたからだと思います。合理的とは、無理や無駄がないこと。早く動こうと思っているわけではなくて、塩田剛三先生の精度を頂点として、養神館合気道の合理的な動きを追求することで、それなりに精度が上がってきた。他の合気道や武道もやってきたことで、ひとつ合理的な動きが理解出来ると、それを適用した他の動きも理解できるようになったということだけだと思います。あくまで自分比ですが。

 

こういうことが武道武術をやっていなければ、現在の私はぜんぜん出来なかったんだろうなと想像すると、やはり衰えただけの自分しか想像できず、ゾッとします。

 

 

ドラえもんの体にならないために

 

足が速くなるために◯◯筋を鍛える、補強するという発想は、フィットネスジム的な方法。俊敏性を高めるSAQトレーニングなどは、スポーツの専門的技術の基礎と言われたりしますが、競技に特化したものです。靴を履く競技ならばSAQも靴を履いて行うと思いますが、日本の武道の場合は多くが裸足なので、足指や足裏の筋肉も細かく使います。

 

足指や足裏なんて日常生活で使わないじゃん、と思う人も少なくないと思います。

私は自分の足指や手の指、膝や肘、股関節や肩甲骨、ヘソや鼻がどこにあるのか、どっちを向いているかなどが分からない、意識できない状態を、ドラえもんの体と呼びます。精晟会渋谷の稽古で私がよく使う比喩ですが、動きが自動化できることとはまた別に、細分化して足指まで意識できる使えるように稽古するのは、武道ならではです。

 

 


ドラえもんの体でも日常生活で問題ないかもしれませんが、人混みでぶつかりやすいかもしれません。少なくとも人間の身体としては退化ではないでしょうか。

というか足指足裏だって全身とつながっているし、立つことの土台だから、そこが衰えていいことあるはずがない。と思えるのですが、どうなんでしょうか。知識がありません。

 


もっと言うと、雨上がりに畳んだ傘を持ち歩くとき、混み合ったり階段で周囲の人を刺してしまうような持ち方動き方をする人は、思いのほか多いです。キャリーバッグやリュックなども、人にぶつかるかどうかを意識しているように見える人はとても少ない。

自分自身の身体の地図、それも空間の中での立体的な地図が出来ていなければ、道具を持ったときの不定形に拡張された自分を意識できるはずがありません。モノを持ったときの距離感、不定形に拡張された自分の空間を把握することは、武器をもった武道をやることでしか、養えないんじゃないかという気がします。

 

 

 

軸があることと脱力すること

 

そして何よりも脱力していること。脱力と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、養神館なら構えたときの中心線、あるいは後ろ足からくる力の流れだけを維持し、あとは極力ゆるんでいる。武道やコンタクトするスポーツの場合、速さはあくまで相対的で、必ずしも絶対的な速度ではないと思いますが、ゆるんでいない筋肉は次の瞬間に動けません。ゆるんでいないと細かく動けません。極力ゆるませるためにも、軸感覚は必要だと思います。

無軸という考え方もありますが、垂直落下以外にも重心移動の力を使う日本の武道の場合、ほとんどに軸の概念があるはずです。重心移動の力を効率的に使えれば、歩いたり荷物を持ったり電車で立っていたりする日常生活の動作も、安定して楽にできる方法が自然に出来てしまいます。


軸はもろに実態のあるものではなくて、イメージだと思いますが、回転軸などはあらゆる動作で設定できるし、移動したり切り替えたりできるものだと思います。
私の個人的な考えですし、ややこしいのですが、このあとに書くメンタルにつながってきますので書いてみました。

 

 


メンタルがどう変わったのか

 

私はけっこうだらしない性格です。私が曲がりなりにも、まっとうに生きられているのは超ストイックな奥様のおかげです。武道のおかげでは、まったくありません。


武道に精神性を求める人は多いです。指導する側も、道であるからには人の道、神ながらの道だと説く人や団体も少なくありません。が、少なくとも私は、そんなに人格的に立派な方を、申しわけないですが見たことがありません。立派すぎることをおっしゃる人や団体は、実際には言行不一致どころか真逆のことをしていると思った方がいいのです。

 

 

 

武道の精神性は裏返りやすい?


このことは武道が陶酔したり、客観性を失わせる危険性が高いことを意味していると、私は思っています。身体運動だから陶酔しやすいというのはダンスなどでも同じだと思いますが、団体/集団としてヒエラルキーがはっきりしている分だけ、忖度が日常的で、客観性を失って勘違いしやすいからではないでしょうか。閉鎖的な組織なら、なおさらです。


昨年起こった、高段位受験に多額の金を要求されるという告発も、裏金ではなく伝統的な習慣や配慮と言いながら、うやむやになってしまいました。公益財団法人で、税金による事業を行っている巨大組織が、です。これを伝統が残っていただけと片付けるのは、まるで自分たちは侍だからさと、特権意識に酔いしれているようにさえ思えます。最低限でも受け取った側は、申告しない所得がある。それを何十年も続けていれば、悪質な脱税です。一般的な社会常識からすれば、腐ってるわ。

で、とても人格的に優れているという評価は得られないでしょう。

 

 

 

武道で養えるのは、集中力や冷静さ、落ち着き、そしてバランス感覚

 

私が今まで接した中で、もっとも人格的に円満だと思ったのは、精神性を一切言わないし、笑えるほどご存じないフルコンタクト空手の先生。私が知る限りでは、最も精神的に安定していて、揺らぎが少ないのです。

以前は巨大組織に属していて、ある大会で日本一になっているぐらいに強いのに、私に「自分は武道の先生だと思ってませんから」とおっしゃるのです。「武道の先生だと、精神面も言わなきゃいけないでしょう」という理由だったので、いやいやいや私も同じです。思想とか哲学とか宗教とか高尚な精神性はまったくないしと。

 

だから私は、武道で精神性を養って立派な人格になろうとか、武道が手放しで素晴しいなんて言うつもりはありませんし、できるとも思っていません。ワガママな先生方なら何人も知っていますが、そもそも精神性と人格とはイコールで結びつかないでしょうと。


私は精神面で、武道をやることで養えるのは、集中力や冷静さ。落ち着きやバランス感覚を、緊張した場面でも発揮できるようになることだけです。だけと言っても、私自身はこれが大きかったのです。

 

直接的に感じるのは、演武や審査のときです。演武ではいつも始まるまでドキドキしています。出なきゃ良かったよなとか思いながら、始まってしまうとどうしたことかほとんど無心にやれてしまうのです。

以前はそんなことありませんでした。養神館の演武大会では、大勢の師範の皆さんの目の前でやるのだから緊張感はマックスです。でもいつからか、始まってしまうと無心になっている自分に気がつきました。

 

 

 

警察署の武道始め式で演武させていただいたときも、ドキドキでした。上の動画にも出てきますが会場に入ると、警察署長以下、偉い方々の席が近いのです。両サイドには警察の剣道師範と柔道師範が着席されています。

 

もちろん慣れはあると思いますが、出ろと言われて慣れさせられているのです。

 

 

 

武道の昇級昇段システムは、メンタルも強くする?

 

いちばんそう感じたのは、鎌倉の鶴岡八幡宮の研修道場で行われる「精晟会指導者研修合宿」で指導者資格の取得審査を受けろと言われたときです。養神館の指導者資格は、現在は養神館本部で受けますが、当時、精晟会では鎌倉合宿で審査が行われていたのです。指導者になるつもりはまったくありませんでしたが、受けろと言われて受けないわけにはいきません。私は通過儀礼にように思っていました。しかし、これが恐ろしかったのです。


それまで毎年のように、恐ろしい場面を見ました。緊張のあまり、何も出来なくなる人もいたぐらいです。師範の方々や海外の道場主が並び、審査されます。いつも稽古している人たちだけではなく、他の道場や大学の合気道部の有段者たちも見ています。最後に師範の方々から講評あるのですが、聞いているだけで恐ろしいのです。見ていてもそんなところ、まったく気がつかなかったというような内容を指摘されると、ヒィーそんなこと言われるのかと震えました。
だから自分から受けたいとは、思うわけもないのです。

 

しかしこれらの経験を経て、メンタルは強くなったというよりも、なんとかなる、できるんじゃないのと少なくとも図太くはなりました。そしていつも維持できるわけではありませんが、どういう精神状態が自分にとってのベストかということも、なんとなく理解できてきました。

 

 

 

精神を集中する安全な方法

 

それこそ自分の価値観の中で、緊張する場面、怖いと思う状況をなんどかくぐり抜ければ、精神的に以前より強くなるのです。強くなるというか、自分の心の状態を理解できること自体が、適切に安定した状態をキープする入口です。厳しさの差はありますが、こんなプロセスは、どんな武道だって同じでしょう。審査や演武には、そんな価値もあると思います。

 

精晟会渋谷の稽古で、頻繁に行っていることを書いておきます。


養神館合気道では、構えます。剣を持っていれば剣先から、徒手だと中指の先からレーザーかなにかが出ていて、目の前の相手の顏に当たっている。相手がいなくても、二畳分ほど先に立つ自分を想定して、狙っているとイメージしましょう。合気道なんだから、やっつけてやるじゃなくて、ただ淡々と狙っている状態だと。剣だと誰がやっても、いい表情になってきます。私はこれを、一種の瞑想状態。瞬間的な一点注視法だと思っています。


Googleが取り入れるなどしてマインドフルネス瞑想が世界的に流行しているようですが、瞑想することに色々くっつけると危険です。ヨガを含め、そもそも宗教の修行法なのですから、経験豊富な指導者がそれほど大勢いるとは思えません。

 

 

 

心と身体は不可分の関係にある

 

私が言っている構えで「狙う」は、弓道でも同じだろうと勝手に想像していますが、無心になっても身体の形がダメだと、まったくダメなのです。


フィジカルとメンタルと分けて書いてきましたが、心と身体は不可分の関係。「心が身体を動かす」も真実だけど、「身体もまた、心を決める」だと思っています。つまりは心と身体のバランス。心ばかり追求するのは、どんどん深みにはまって帰って来れなくかもしれません。身体ばかり追求するのも、逆に壊してしまうかもしれません。


トップアスリートは選手である間、アドレナリンが噴出しているそうです。その過剰なアドレナリンが血管を痛めつけたり、あるいは引退後に精神疾患に陥ってしまう人が少なくないとスポーツドクターから聞きました。負の面はほぼ表に出てきませんのでなんとも判断できませんが、極限まで突き詰めること自体が大きな副作用を伴いそうなことは想像がつきます。

 

今よりも強さを求めるなら、どんな故障もマイナスにしかなりません。だから故障しないように、段階的に稽古する。多くの武道は身体的な訓練から入って、いずれ精神性を必要とするのです。たとえば日本の武道では野獣になって、リミッターを外して殺せとするような教えはまずないでしょう。

 

 

 

技法にフィードバックされる理念であること


合気道の場合はそこが見事で、『武産合気』の植芝盛平開祖口述で書かれている「和合」「宇宙の働きと調和」「勝つとは己の心の中の争う心にうちかつことである」などは、精神性であると同時に技法の理合いそのものだと私は考えています。怒る方もいらっしゃるでしょうけれども、精神性と解釈しなくても、理解できますよと。
単純化して書いてみます。和合は、相手の力の方向と自分の向きを合わせて無力化すること。宇宙の働きと調和は、重力の働きに逆らわず味方にすること。争う心に打ち勝つとは、戦闘的になったりパニックにならず気持ちを安定させること。そんな風に私はですが、理解しています。

 

※上の画像はAmazonにリンクしていますが、5月3日現在品切れです 

 

 

最後だけは技法ではありませんが、合気道に限らず、ほとんどの日本の武道で求められるはずです。緊張感は必要だけれども、高揚しすぎるな。集中力は必要だけれども、とらわれすぎるな。など様々な言い方で、我を忘れることをいさめるのです。平常心という言葉もあります。


陶酔したり勘違いしてしまう危険性は、型武道では顕著にあります。陥りやすいのは同じ道場とか、同じ価値観の人たちばかりと稽古していること。


さいわい私の場合は、さまざまな人たちと稽古する機会にめぐまれています。つい最近もカナダやイギリスの巨漢たちが来ました。そこで自分の技が通用してしまうと慢心してしますのですが、合気道の人たちだから回路が出来ています。


先日、勝浦の日本武道館研修センターで行われている全日本学生合気道連盟の合宿に行ったときのこと。ある合気道競技の合気道部の学生に片手を持たれて、「ヤバい。合気道じゃない」と感じました。固めているのではなく柔らかいけれども、しっかりとした肉体に掴まれている感があったのです。今まで合気道をやってた?と聞くと、野球だという返事。そうかあ、野球かぁと、分からないなりに納得しました。どんなスポーツでも、10代20代とめちゃめちゃやってた人の肉体は、それだけで強いのです。

 

 

上には上がいることを身体から理解できることの強さ

 

部分部分でもトータルでも、自分よりはるかに出来る人や強い人は無数に存在しています。上には上がいること、そんな当たり前のことを身体で直接的に理解できるのは武道ならではのことではないでしょうか。
上には上がいるからと、そこで辞めてしまうのではなく、長く続けて追求する環境があるのも武道ならではです。

 

いや、ちょっと訂正します。環境がないところもあります。ある流儀の本部道場で、トップの方が「あなたは古参だけれども、もう上達する見込みがない。だから辞めてくれ」という場面を目撃しました。まあ確かになあとも思ったのですが、その道場では動きの形を正確に行うことと、理合いしか説明しないのです。ものすごい肩書きの先生方が何人もいらっしゃるのに、正確に動けないのはここがこういう風に動いてないからだという指摘がまったくないのです。動くためには、こういう運動をしてみましょうとか、スポーツトレーナーがするようなことまではなくてもいいかもしれませんが、漫然とカタチを繰り返しやるだけなら、先生方が大勢いる必要はありません。

それが昔ながらのやり方ですが、今ではもう少ないはずです。

 

 

自分の中に基準となるものを持つ強さ

 

だから手放しで武道バンザイ! どんな武道も素晴しいよとまでは行きませんが、それでも武道には可能性があるのです。

 

フィジカルがどう変わったかで、軸がどうのと書きました。軸は自分でイメージして、基本的に自分の肉体で作るものです。その軸は固定しているものではなく、動きの中で切り替えたり変化して行くものです。変化していても、拠り所となる軸は自分で設定しています。精神のあり方も我を忘れず、しかもその場に対応する適切な意識の状態を、自分で感じながら体得し、コントロールするものです。


団体や先生がどうのではなく、あくまで拠り所となる軸や水準が自分の中にあるし、養っていかなきゃいけない。こういうことのできる可能性は、武道にしかないかもしれません。養えれば、今よりマシな自分になっているはずです。自分の中に軸や水準があれば、たとえ周りの環境が激変しても、正気を保てるよう立ち戻ることができるし、ダメなら変化することもできると、私は考えています。

 

合気道の場合は、ぶつかったら回れ、です。

 

 

 


 

Please reload

Popular Posts
Please reload

最新記事
Please reload

アーカイブ
Please reload