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合気道を理解するために役立つ知識や名言、歴史上のエピソードを、信頼度が高く、また再版されていない書籍などから引用してデータベースにしました。

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植芝盛平と合気道

大先生の教授法

植芝盛平と合気道

合気ニュース

97

最初はやはりきちんと、いちいちビシッと教えていましたけれども、それ程何を作ろう、彼作ろうと言うように執着した教え方じゃありませんでした。しかし、一点、一分一厘、間違えないように正確にやらないといけないという事を言っていました。 最近、技の鍛練でも、初心者がしっかりした確実な所を柔らかくし過ぎて、そのままスッと流す人がいます。そういう事ではなく、やるからには、基本はぴしっと叩き込んで、その動きの上でひとつの柔らかみを付けていかなくては、本来の強みではありません。 最初からふわふわと、お豆腐か何かみたいにやったら一遍に潰れてしまうということです。最初はしっかりした鍛練が必要なのです。しっかりした鍛練が必要でそれを積み重ねて行くうちに、だんだんそういった合気の柔らかい厚みというものが出来てくるのです。

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植芝盛平と合気道

盛平と薙刀

植芝盛平と合気道

合気ニュース

96

先生が一番すごいと思うのはね、何でもパッと分かるということです。舞踊家の花柳寿美女史をご存知ですか。あの人がパトロンの岡田氏と一緒に、先生の所に来たことがあるのです。戦時中で歌舞伎座で薙刀の舞をやる事になった。岡田さんは、先生が武道のことなら、何でもご存知だと思っているわけです。ところが先生はあまり薙刀のことはご存知ない。「知らん、駄目だ」と先生は言い続け たのですが、かえってそれが遠慮しているんだと、とられてしまったのですね、執拗に頼まれてしまった。そこで先生も困って、とうとう「よし」と返事をしてしまったのです。岡田さんは次の日に来る事を約して帰った。それから先生は私に、「牛若丸」の絵本を買ってこいと言うのです (笑)。買 ってくると先生は、一日中自分の寝室に篭って、神棚にその絵本を立てて、誰も入ってはいけないと いうわけです。そして翌日寝室から出て来て、「塩田さん、もう覚えたよ」と言うんですね(笑)。 やがて、十人くらいの綺麗な女弟子を連れて、花柳寿美がやって来たのです。そして薙刀の稽古が 始まった。先生は思いつきで教えますからね、連係して教えない。だが花柳寿美も大したものですよ、十日間来て、それをきちんと纏めましたからね。その後、先生と私は歌舞伎座に招待されましたが、 立派にやっていましたよ。当時の薙刀の先生がその時いらしてたのですが、その方が後で言うには、「あの薙刀は素晴らしい。わたしらが学ぶ所が多々ある。一体どの先生が教えましたか」とね。その 後その先生は植芝道場にいらして、大先生と薙刀について談議されていましたよ。 とにかくこのようにね、神が乗り移るというか、何でも分かってしまうんですね。どうして薙刀が分かったんですかと後で聞いたら、「ちゃんと牛若丸が出てきて教えてくれたんじゃ」って言うんですからね(笑)。そんなふうにちょっと変わった先生でしたね、テレパシーがすごいんですよ。

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続植芝盛平と合気道

植芝先生のエピソード

続植芝盛平と合気道

合気ニュース

88

(スタンレー・プラニン)-塩田先生から植芝先生のエピソードをお聞きになりましたか。 (井上強一)-休憩時間や演武旅行のときに聞きました。大先生は演武旅行されるときに、汽車に乗るとよく 鉄扇を持たれていたそうです。そして「塩田さん、スキがあったらいつでもわしの頭をこれで殴れ」と言って、すぐコックリコックリと眠り始める。寝てすぐだったら気付かれると思って少し待ち、「そろそろいいかな」と思うと、大先生はすーっと頭をあげて「(駅は)まだかな?」(笑)。「いやいや、まだです」と言って鉄扇を隠すと「ああそうか」と言ってまた眠る。それから外を見て知らんぷりし てて大先生をチラッ、チラッと見る。それでずいぶん寝入っているから「いいかな」と思うと、ひゅっと目をあげて「喉が渇いたな」なんて(笑)。それを三回くらいやって、館長も眠いのを我慢して たので、阿呆らしくなって鉄扇を置いて寝ちゃったそうです。あとで植芝先生に殴ろうとするときはわかるのですかと聞いたら、「ただ何となくモヤモヤするから起きる」と言われたそうです。

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合気道修行 - 対すれば相和す

最も自然に動ける体を作る

合気道修行 - 対すれば相和す

塩田剛三

87

ちなみに、植芝先生がどんな体をしていたかを振り返ってみましょう。先生の場合、全体的には太いのですが、筋肉隆々という感じではありませんでした。肖像画なんかではゴツゴツした体のように描いてありますが、 際には少し違います。ゴツゴツしているのではなく、全体的にスーッとなめらかなのです。 私はよく風呂で先生の背中を流したり、あんまをさせられたりしていたので実際に触わっているんですが、とても弾力性があったことを覚えています。指で押してパッと離すと、グーンと戻って来るような感じでした。 そんな先生に手を握られると、やはりちょっと違った感じがあります。 最初はそんなにガッと力が入っている感じじゃない。しかし、知らないうちにだんだんグーッと締まってくる。つまり、ソフトなんですが、それいて底力があるような、そんな力の出し方をされていました。 開祖である植芝先生がこういう体質だから、合気道をやる人間が皆、同 じような体を作るべきかというと、そうではありません。 先生もよく言っていました。体を作るというのは自分の心構えであって、 自分に即した体を作る、それでいいんだ、と。「だから塩田はん、ワシと同じ体を作ったとしたら、あんたは自然には動けん」とも、おっしゃってました。 つまり、植芝先生が言うには、合気道は自然であることを最高とする武 道だから、自分が無理になるような体を作ってはならないということなの です。 ただし、この自然ということを皆さん勘違いしていることが多い。 たとえば、齢を取って体が硬くなってきたからといって、無理矢理に若いころと同じような柔軟体操をやったんじゃ、筋をおかしくしてしまう。あるいは、体が小さいからというので無理矢理にウエイトトレーニングで 必要以上の筋肉をつけたとしたら、体にリキみがついてしまいます。こういったことは不自然なことなのです。

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開祖 植芝盛平の合気道

梅で開いて、松で治める

開祖 植芝盛平の合気道

大宮司郎

85

さて、翁は「三千世界、一度に開く梅の花」につづいて「梅で開いて、松で治める」と言って、今度はばっと開いた手を結んだという。この言葉も同様に、大本教における神示の一つなのである。 (中略) そして植芝翁は、開いた手を「梅で開いて、松で治める」と結ぶとき、握った手で松の精髄である「松ぼっくり」を、そして握る動作で「納める(治める)こと」を象徴していた。 (中略) このように手を握ることを、大東流では「猫の手伝」という。このような何気ない動作が、なぜ口伝とされているかというと、手を握ることによって、肩や肘から力を抜くことができるからなのである。 手を握ると手に力が入ると思うだろう。だが開いた手に力が入っているとき、そのままの形で力を抜くことは、普通の人にはなかなか難しいのであるが、手を軽く握ることによって、肘や肩の力を抜くことができるのである。

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戦後合気道群雄伝

初の一般公開演武会

戦後合気道群雄伝

加来耕三

84

昭和三十年(一九五五)の九月の末から十月のはじめにかけて、東京・日本橋の高島屋の屋上において、合気道史に残る、初の一般公開演武会が予定通りに開催された。 (中略) 開催当時のことを、徳永に振り返ってもらった。 「開祖はね、何かというと、宇宙の真理を説かれるんですよ。稽古のときにも、『神々は......』 といい出してね。私はそのこと自体、特別気にはならなかったのだけど、まだまだ合気道の内容を知る日本人は少ない時代でしたからね。気合一つで相手が倒れる、と思い込んでいるような人も少なくなかった。ベールに包まれた合気道を公開するわけですから、開祖に『神々は…』とやられると、なにかしら奇怪な、紛い物のように受けとられかねません。 私はそれが何より心配で、大先生、それだけはやめて下さい、と演武会が始まるまで、顔を見るたびにお願いしました。 すると一瞬、開祖は凄まじい眼光を向けてこられる。ところがその恐ろしい眼光がスーッと消え、この世にこれ以上はない、と思われるほどの優しさが滲み出た表情を浮かべられるんですね。私は合気道の門外漢ですが、あの開祖のお顔には深い感銘を受けました」 高島屋での公開演武会は、動員した観衆の数も、それを取り上げたマスコミの数、宣伝という点でも大成功であったといってよい。

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植芝盛平と合気道

一番の思い出

植芝盛平と合気道

合気ニュース

73

塩田 一番思い出深いのは、昭和十六年頃、宮様方が合気道をご覧になりたいということになりまして、あの時の植芝道場の会長で、陛下の侍従武官か何かをやっていらした、海軍の竹下勇大将が道場に依頼にこられたのです。ところが大先生、「宮様の前では嘘をお見せするわけにはいかん」と言われたんですよ。その嘘というのはですね、「自分が一度やると相手は死んでし まう。それがまた起き上がって掛かってくるというのは嘘であって、そんな嘘をお見せするわけにはいかん」というわけですよ。そのことを竹下大将が宮様にお伝えしたら、「いいや、嘘でもいいから見せろ」とね (笑)。 その時、植芝先生は十日前くらいから黄疸で苦しんでいたんです。吐いてばかりいて、ほとんど食べていないんです。とにかく水を飲んだだけで吐いちゃうんですから。それで内弟子の湯川勉 (皇武館道場 時代の内弟子)さんと私と二人でお供して行く事になったんです。 (中略) その演武というのが湯川さんが前半二十分、後半私が剣を持ったりなんかで、二十分やるという段取りだったんです。そういうことで控室に行って稽古着を替えさせて、まあ死ぬ程ではないけれど、ダッと力が抜けて、ダランとなっちゃうんですよ。とにかくそんな状態で、囲りから見えない、相撲でいう花道というんですか、そこまで必死で抱えていったのです。  それがですね、宮様達をご覧になったら、先生突然シャキッとして、シャッ、シャッと歩きだしましてね、びっくりしましたよ(笑)。 精神力なんですね。背中をピシッと伸していっもと変わりないんです。とにかく先生の身体がそんなにひどい状態ですから、湯川さん、遠慮しちゃったんですね、フワフワーと出て打っていったんですね。そしたらピターツと倒されちゃって、何と腕が折れたんです。わずか十秒か十五秒の出来事でした。 それから急いで湯川さんを引っ込めて、後の四十分はほとんど私がやったのです。全くひどい目にあった、四十分投げられっぱなしでね。ようやく終わって、先生が戻ってきたのですが、宮様に見えない所にくると、またグターッとなって(笑)。もう精も根も尽きたんでしょうね。ところが湯川さんがもう駄目なもんだから、私一人で着物を着替えさせたりで、大変でした。私もバンバンやられた後だから参っちゃいましてね。後で熱が四十度も出て、三日間くらい寝こんでしまいました。

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武産合氣

悪を悪として切らず

武産合氣

高橋英雄

71

先生は、武徳会の剣道教士、柔道五段、六段などという猛者たちと、畑の中の道を歩いておられた。それをみたお百姓が、手に肥ひしゃくをもって、この一団のところにかけつけて来た。 「なんだ、お前たち、ひとの地所の中にへえって、どうしてくれるんだ!」 この辺のお百姓は評判の強欲者で、少しでも自分の地所に入ったというと、ゴタゴタとうるさく文句をいって嫌がらせをするのだった。「何! 生意気な、文句あるのか!」 相手が血気盛んの、それも事あれかしと待ちかねている若い連中だったから、たまらな い。 面白いじゃないか、やっちまえ、ということになりかかった時、一団の先頭を歩いておられた植芝先生は引返えし、猛者連をなだめ、お百姓の前に出た。 「お前様が大将か? 大将なら話がわかるだろう。一体、人の地所内にふみ入るとは何事だ」 「お話はよくわかった、我々が悪かった、どうか勘弁して下さい」と物柔らかに頭を下げられた。 何かしかけようとしたら、手にもった肥ひしゃくで糞尿を頭からふりまいてやろう、と気負っていたお百姓も、それに拍子ぬけしたのか、それとも事を荒立てたら、かえって自分がどうなるかわからない、といって今は引くにも引けず、というところを救ってもらって安心したのか、引下っていった。 「先生!あんな生意気な百姓やっちまえばいいですのに」「馬鹿いいなさんな、頭からこやしをかけられたら、くさくてたまらんよ、ハハハハ」 植芝先生はそう笑って、そこを去っていかれた。よく事情をきくと、お百姓のほうが悪かったのであるが「悪を悪として切らず、悪を祓いて浄めて、和合してゆくのが合気道じゃからのう」植芝先生はそうあとで教えて下さった。

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続植芝盛平と合気道

殴ってやるから紹介しろ

続植芝盛平と合気道

合気ニュース

75

まだ塩田先生が拓大の学生だった頃、先生の友達でものすごく喧嘩の強い人がいた。その人が先生に、「植芝先生が強いと言うが、あんな爺さん、頭のひとつでも殴ってやるから紹介しろ」と言った。「じゃあやってみろ」ということで、ある日連れて行ったそうです。「このあいだ話した友達の何々です」と塩田先生が紹介すると、その友達が「初めまして」と言ってずーっと頭をさげたわけです。それで植芝先生が「ああよくいらっしゃいましたな」と言ったが頭をさげない。いつもはどんな人に対しても礼儀正しくしなさいと厳しく言っているのに、そのときはぜんぜん頭をさげない。 一方、その友達は頭をさげたままぜんぜんあげない。二人で何をやってるのかなと思ったら、そのうちにその友達がぱーっと頭をあげたら植芝翁が「ああよくいらっしゃいました」って頭をさげた (笑)。そしたら友達が「参りました」って頭をさげたのです。 その友達が帰るときに、「初めての人から挨拶されれば、いらっしゃいと頭をさげるだろう。その途端に殴れば当たらないまでも触れるかもしれないと思って待ってたんだがいつまでたっても頭をさげない。これは駄目だと思って頭をあげたら逆に頭をさげられて殴り損なった。あの爺さんは只者じゃあないよ」と言ったそうです。 それから館長先生は道場へ帰って植芝翁に「友達が学生とはいえ、なんでお辞儀をなさらなかったのですか」と聞いたわけです。そしたら翁は「君の友達は初めは邪で心から挨拶してなかった。でも途中で心を改めたようだから私は頭をさげた。そしたら勝手に参りましたって言ったんだ」と(笑)。

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精説 合気道教範

宗教心

精説 合気道教範

植芝吉祥丸

65

なんといっても、田辺をはじめ紀州は神社としては熊野の関係が多く、仏閣は真言宗が多い。紀州熊野にある那智の滝は古くから八大竜王の本巣として竜神のいます所としてあがめられていた。祖神をはじめ竜神を祭る熊野神社は今も参拝する人が多く、日本の各地にも熊野神社を祭る分支神社がある。 この地方では毎年、実りの秋がくると熊野神社の祭礼がある。この祭礼には赤白の世代で色どったおみこしが練り歩く。そのみこしの花をとって群がる氏子に投げ与える行事があるが、その白い花が当たると良い児が授かるという伝えがあった。それが盛平がまだ生まれてない前に盛平の父にあたったので、盛平が生まれたときは両親の 心な信心で生まれた熊野神社の申し子だと信じられていた。 しかも、植芝家は真言宗に帰依していたので、もの心つくころから、盛平は高山寺、地蔵寺、能満寺と近くにある真言宗の寺院に足繁く出入りするようになり、7歳のときにはすでに四書五経をそらんずるようになっていた。当時、もっとも影響を受けたのが地蔵寺の住職・藤本密乗老師であったという。こうした信心深い環境が、合気武道から合気道へと盛平に精神的安定と飛躍を与えた大きな原因の1つとなったことは間違いない事実であったろう。

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合気道「抜き」と「呼吸力」の極意

気配

合気道「抜き」と「呼吸力」の極意

井上強一

33

植芝盛平先生の稽古で、木刀を持たせた相手に打ち込ませるということを行っていました。塩田剛三先生は、「自分にもやらせてください」と言って木刀を持って打ち込んだのだそうです。そうしたら植芝先生は難なく左へとかわしました。もう一度、正面に打ち込んだら、再び左へかわされたそうです。そこで、塩田先生は「正面に打つと見せかけて左へ打ち込んでやろう」と思って打ち込んだそうです。そうしたら、驚くことに植芝先生は動かなかったそうです。 (中略) 私はこの話が最も重要だと思います。 植芝先生と塩田先生が、大本教の本部にある大きな庭を歩いていたときのことです。木の枝が落ちてきて、植芝先生の頭に当たりました。普段から、気配を読まれる体験をしている塩田先生が不思議がっていたところ、植芝先生はこう言われたそうです。 「だって自然に落ちてきたんだから、避けられるはずがないよ」

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植芝塾

AikiNews NO.144/植芝盛平と大本教

- スタンレー・プラニン

29

側近となってから二、三ヵ月後、王仁三郎は盛平に、武田惣角から学んだ大東流合気柔術を大本の幹部に教えるように勧めた。こうして綾部の自宅に「植芝塾」と名づけた小さな道場が生まれた。道場には王仁三郎の書いた『植芝塾』の掛軸が掛けられていた。

武道の礼儀作法

大森曹玄が姿勢について

武道の礼儀作法

野中日文

20

合気道の開祖については、筆者の剣と禅の師である大森曹玄がその姿勢について語ったことがある。 (中略) しかし戦後、東京芝の増上寺での頭山満翁の法要の会場で、前方の紋服姿の一人の老人が立っている。その後ろ姿の立派なこと、神々しいこと、すっくと立ってはいるが、どこにも力みがなく天からぶら下がったような格好でスーッとしている。どうみてもただ者ではない。 はて…、これは間違いなく武道家の姿勢だが、しかし柔道家ではない。そのことはわかる。どちらかといえば剣道家の姿勢だが、剣道家ならたいてい知っているけれども、知人にこういう骨柄の人物はいない。 はて…、誰だろうと法要中そのことばかり気になっていたが、やがて「あっ! これが合気道の植芝盛平ではないか」と気がついた。なおも観察を続けていて、いや、これは確かに植芝盛平だと確信するに至ったが、あとで受付で確認すると「合気道の植芝先生です」との返事で、深く胸中に納得するものがあった、とこんな話であった。 ​

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中村天風と植芝盛平

リラックス

中村天風と植芝盛平

藤平光一

15

植芝盛平先生はリラックスを体現された人だった。しかし、このリラックスが、簡単なようで難しい。よくある間違いは「力が抜けた状態」になってしまうことだ。 よく考えて欲しい。「力が抜けた」状態と「力を抜いた」状態とではまったく違う。前者は最弱の状態であり。後者は最強の状態なのである。 (中略) 力を抜いた状態と言うと、一見、弱い、頼りない状態を想像するかもしれないが、事実はまったく逆である。 むしろ全身のどこにも無駄な力が入っていないからこそ、予期せぬ動きにも瞬時に対応することができるし、力を一点に集中することもできるのだ。

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続 植芝盛平と合気道/開祖を語る13人の弟子たち

極意にかぶれる

続 植芝盛平と合気道/開祖を語る13人の弟子たち

- 多田宏

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植芝先生のお話や逸話には「山のてっぺん」のお話が多いんです。それを一部だけ取り出して話すと、誤解される恐れがあるんです。我々が先生に習ってたときは、一生懸命習ったことを全部飲み込むぐらいの気持ちでいました。ずーっと先生を心に写すような気持ちでした。 もっともあまりにそのときの自分の世界から飛び跳ねると「極意にかぶれる」といって昔から嫌うのです。だから先生のことをいまの若い人たちに話すとき、あるいは先生のビデオを見るとき、注意する必要があるわけです。 我々が稽古中、大先生がなさった技を安易に真似ると、えらく叱られました。「君たち、いま、私がすることを形だけ真似してはいかんよ。もっと基本をがっちりとやりなさい」と言われました。

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