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合気道を理解するために役立つ知識や名言、歴史上のエピソードを、信頼度が高く、また再版されていない書籍などから引用してデータベースにしました。

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植芝盛平と合気道

一番の思い出

植芝盛平と合気道

合気ニュース

73

塩田 一番思い出深いのは、昭和十六年頃、宮様方が合気道をご覧になりたいということになりまして、あの時の植芝道場の会長で、陛下の侍従武官か何かをやっていらした、海軍の竹下勇大将が道場に依頼にこられたのです。ところが大先生、「宮様の前では嘘をお見せするわけにはいかん」と言われたんですよ。その嘘というのはですね、「自分が一度やると相手は死んでし まう。それがまた起き上がって掛かってくるというのは嘘であって、そんな嘘をお見せするわけにはいかん」というわけですよ。そのことを竹下大将が宮様にお伝えしたら、「いいや、嘘でもいいから見せろ」とね (笑)。 その時、植芝先生は十日前くらいから黄疸で苦しんでいたんです。吐いてばかりいて、ほとんど食べていないんです。とにかく水を飲んだだけで吐いちゃうんですから。それで内弟子の湯川勉 (皇武館道場 時代の内弟子)さんと私と二人でお供して行く事になったんです。 (中略) その演武というのが湯川さんが前半二十分、後半私が剣を持ったりなんかで、二十分やるという段取りだったんです。そういうことで控室に行って稽古着を替えさせて、まあ死ぬ程ではないけれど、ダッと力が抜けて、ダランとなっちゃうんですよ。とにかくそんな状態で、囲りから見えない、相撲でいう花道というんですか、そこまで必死で抱えていったのです。  それがですね、宮様達をご覧になったら、先生突然シャキッとして、シャッ、シャッと歩きだしましてね、びっくりしましたよ(笑)。 精神力なんですね。背中をピシッと伸していっもと変わりないんです。とにかく先生の身体がそんなにひどい状態ですから、湯川さん、遠慮しちゃったんですね、フワフワーと出て打っていったんですね。そしたらピターツと倒されちゃって、何と腕が折れたんです。わずか十秒か十五秒の出来事でした。 それから急いで湯川さんを引っ込めて、後の四十分はほとんど私がやったのです。全くひどい目にあった、四十分投げられっぱなしでね。ようやく終わって、先生が戻ってきたのですが、宮様に見えない所にくると、またグターッとなって(笑)。もう精も根も尽きたんでしょうね。ところが湯川さんがもう駄目なもんだから、私一人で着物を着替えさせたりで、大変でした。私もバンバンやられた後だから参っちゃいましてね。後で熱が四十度も出て、三日間くらい寝こんでしまいました。

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武産合氣

悪を悪として切らず

武産合氣

高橋英雄

71

先生は、武徳会の剣道教士、柔道五段、六段などという猛者たちと、畑の中の道を歩いておられた。それをみたお百姓が、手に肥ひしゃくをもって、この一団のところにかけつけて来た。 「なんだ、お前たち、ひとの地所の中にへえって、どうしてくれるんだ!」 この辺のお百姓は評判の強欲者で、少しでも自分の地所に入ったというと、ゴタゴタとうるさく文句をいって嫌がらせをするのだった。「何! 生意気な、文句あるのか!」 相手が血気盛んの、それも事あれかしと待ちかねている若い連中だったから、たまらな い。 面白いじゃないか、やっちまえ、ということになりかかった時、一団の先頭を歩いておられた植芝先生は引返えし、猛者連をなだめ、お百姓の前に出た。 「お前様が大将か? 大将なら話がわかるだろう。一体、人の地所内にふみ入るとは何事だ」 「お話はよくわかった、我々が悪かった、どうか勘弁して下さい」と物柔らかに頭を下げられた。 何かしかけようとしたら、手にもった肥ひしゃくで糞尿を頭からふりまいてやろう、と気負っていたお百姓も、それに拍子ぬけしたのか、それとも事を荒立てたら、かえって自分がどうなるかわからない、といって今は引くにも引けず、というところを救ってもらって安心したのか、引下っていった。 「先生!あんな生意気な百姓やっちまえばいいですのに」「馬鹿いいなさんな、頭からこやしをかけられたら、くさくてたまらんよ、ハハハハ」 植芝先生はそう笑って、そこを去っていかれた。よく事情をきくと、お百姓のほうが悪かったのであるが「悪を悪として切らず、悪を祓いて浄めて、和合してゆくのが合気道じゃからのう」植芝先生はそうあとで教えて下さった。

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続植芝盛平と合気道

殴ってやるから紹介しろ

続植芝盛平と合気道

合気ニュース

75

まだ塩田先生が拓大の学生だった頃、先生の友達でものすごく喧嘩の強い人がいた。その人が先生に、「植芝先生が強いと言うが、あんな爺さん、頭のひとつでも殴ってやるから紹介しろ」と言った。「じゃあやってみろ」ということで、ある日連れて行ったそうです。「このあいだ話した友達の何々です」と塩田先生が紹介すると、その友達が「初めまして」と言ってずーっと頭をさげたわけです。それで植芝先生が「ああよくいらっしゃいましたな」と言ったが頭をさげない。いつもはどんな人に対しても礼儀正しくしなさいと厳しく言っているのに、そのときはぜんぜん頭をさげない。 一方、その友達は頭をさげたままぜんぜんあげない。二人で何をやってるのかなと思ったら、そのうちにその友達がぱーっと頭をあげたら植芝翁が「ああよくいらっしゃいました」って頭をさげた (笑)。そしたら友達が「参りました」って頭をさげたのです。 その友達が帰るときに、「初めての人から挨拶されれば、いらっしゃいと頭をさげるだろう。その途端に殴れば当たらないまでも触れるかもしれないと思って待ってたんだがいつまでたっても頭をさげない。これは駄目だと思って頭をあげたら逆に頭をさげられて殴り損なった。あの爺さんは只者じゃあないよ」と言ったそうです。 それから館長先生は道場へ帰って植芝翁に「友達が学生とはいえ、なんでお辞儀をなさらなかったのですか」と聞いたわけです。そしたら翁は「君の友達は初めは邪で心から挨拶してなかった。でも途中で心を改めたようだから私は頭をさげた。そしたら勝手に参りましたって言ったんだ」と(笑)。

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精説 合気道教範

宗教心

精説 合気道教範

植芝吉祥丸

65

なんといっても、田辺をはじめ紀州は神社としては熊野の関係が多く、仏閣は真言宗が多い。紀州熊野にある那智の滝は古くから八大竜王の本巣として竜神のいます所としてあがめられていた。祖神をはじめ竜神を祭る熊野神社は今も参拝する人が多く、日本の各地にも熊野神社を祭る分支神社がある。 この地方では毎年、実りの秋がくると熊野神社の祭礼がある。この祭礼には赤白の世代で色どったおみこしが練り歩く。そのみこしの花をとって群がる氏子に投げ与える行事があるが、その白い花が当たると良い児が授かるという伝えがあった。それが盛平がまだ生まれてない前に盛平の父にあたったので、盛平が生まれたときは両親の 心な信心で生まれた熊野神社の申し子だと信じられていた。 しかも、植芝家は真言宗に帰依していたので、もの心つくころから、盛平は高山寺、地蔵寺、能満寺と近くにある真言宗の寺院に足繁く出入りするようになり、7歳のときにはすでに四書五経をそらんずるようになっていた。当時、もっとも影響を受けたのが地蔵寺の住職・藤本密乗老師であったという。こうした信心深い環境が、合気武道から合気道へと盛平に精神的安定と飛躍を与えた大きな原因の1つとなったことは間違いない事実であったろう。

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合気道「抜き」と「呼吸力」の極意

気配

合気道「抜き」と「呼吸力」の極意

井上強一

33

植芝盛平先生の稽古で、木刀を持たせた相手に打ち込ませるということを行っていました。塩田剛三先生は、「自分にもやらせてください」と言って木刀を持って打ち込んだのだそうです。そうしたら植芝先生は難なく左へとかわしました。もう一度、正面に打ち込んだら、再び左へかわされたそうです。そこで、塩田先生は「正面に打つと見せかけて左へ打ち込んでやろう」と思って打ち込んだそうです。そうしたら、驚くことに植芝先生は動かなかったそうです。 (中略) 私はこの話が最も重要だと思います。 植芝先生と塩田先生が、大本教の本部にある大きな庭を歩いていたときのことです。木の枝が落ちてきて、植芝先生の頭に当たりました。普段から、気配を読まれる体験をしている塩田先生が不思議がっていたところ、植芝先生はこう言われたそうです。 「だって自然に落ちてきたんだから、避けられるはずがないよ」

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植芝塾

AikiNews NO.144/植芝盛平と大本教

- スタンレー・プラニン

29

側近となってから二、三ヵ月後、王仁三郎は盛平に、武田惣角から学んだ大東流合気柔術を大本の幹部に教えるように勧めた。こうして綾部の自宅に「植芝塾」と名づけた小さな道場が生まれた。道場には王仁三郎の書いた『植芝塾』の掛軸が掛けられていた。

武道の礼儀作法

大森曹玄が姿勢について

武道の礼儀作法

野中日文

20

合気道の開祖については、筆者の剣と禅の師である大森曹玄がその姿勢について語ったことがある。 (中略) しかし戦後、東京芝の増上寺での頭山満翁の法要の会場で、前方の紋服姿の一人の老人が立っている。その後ろ姿の立派なこと、神々しいこと、すっくと立ってはいるが、どこにも力みがなく天からぶら下がったような格好でスーッとしている。どうみてもただ者ではない。 はて…、これは間違いなく武道家の姿勢だが、しかし柔道家ではない。そのことはわかる。どちらかといえば剣道家の姿勢だが、剣道家ならたいてい知っているけれども、知人にこういう骨柄の人物はいない。 はて…、誰だろうと法要中そのことばかり気になっていたが、やがて「あっ! これが合気道の植芝盛平ではないか」と気がついた。なおも観察を続けていて、いや、これは確かに植芝盛平だと確信するに至ったが、あとで受付で確認すると「合気道の植芝先生です」との返事で、深く胸中に納得するものがあった、とこんな話であった。 ​

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中村天風と植芝盛平

リラックス

中村天風と植芝盛平

藤平光一

15

植芝盛平先生はリラックスを体現された人だった。しかし、このリラックスが、簡単なようで難しい。よくある間違いは「力が抜けた状態」になってしまうことだ。 よく考えて欲しい。「力が抜けた」状態と「力を抜いた」状態とではまったく違う。前者は最弱の状態であり。後者は最強の状態なのである。 (中略) 力を抜いた状態と言うと、一見、弱い、頼りない状態を想像するかもしれないが、事実はまったく逆である。 むしろ全身のどこにも無駄な力が入っていないからこそ、予期せぬ動きにも瞬時に対応することができるし、力を一点に集中することもできるのだ。

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続 植芝盛平と合気道/開祖を語る13人の弟子たち

極意にかぶれる

続 植芝盛平と合気道/開祖を語る13人の弟子たち

- 多田宏

6

植芝先生のお話や逸話には「山のてっぺん」のお話が多いんです。それを一部だけ取り出して話すと、誤解される恐れがあるんです。我々が先生に習ってたときは、一生懸命習ったことを全部飲み込むぐらいの気持ちでいました。ずーっと先生を心に写すような気持ちでした。 もっともあまりにそのときの自分の世界から飛び跳ねると「極意にかぶれる」といって昔から嫌うのです。だから先生のことをいまの若い人たちに話すとき、あるいは先生のビデオを見るとき、注意する必要があるわけです。 我々が稽古中、大先生がなさった技を安易に真似ると、えらく叱られました。「君たち、いま、私がすることを形だけ真似してはいかんよ。もっと基本をがっちりとやりなさい」と言われました。

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