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合気道を理解するために役立つ知識や名言、歴史上のエピソードを、信頼度が高く、また再版されていない書籍などから引用してデータベースにしました。

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【著作権者の方へ】引用の範囲を逸脱していると考えられる場合はデータから削除いたしますので、お手数ですが、下のお問い合わせからご連絡をお願いします。

植芝盛平と合気道

盛平と薙刀

植芝盛平と合気道

合気ニュース

96

先生が一番すごいと思うのはね、何でもパッと分かるということです。舞踊家の花柳寿美女史をご存知ですか。あの人がパトロンの岡田氏と一緒に、先生の所に来たことがあるのです。戦時中で歌舞伎座で薙刀の舞をやる事になった。岡田さんは、先生が武道のことなら、何でもご存知だと思っているわけです。ところが先生はあまり薙刀のことはご存知ない。「知らん、駄目だ」と先生は言い続け たのですが、かえってそれが遠慮しているんだと、とられてしまったのですね、執拗に頼まれてしまった。そこで先生も困って、とうとう「よし」と返事をしてしまったのです。岡田さんは次の日に来る事を約して帰った。それから先生は私に、「牛若丸」の絵本を買ってこいと言うのです (笑)。買 ってくると先生は、一日中自分の寝室に篭って、神棚にその絵本を立てて、誰も入ってはいけないと いうわけです。そして翌日寝室から出て来て、「塩田さん、もう覚えたよ」と言うんですね(笑)。 やがて、十人くらいの綺麗な女弟子を連れて、花柳寿美がやって来たのです。そして薙刀の稽古が 始まった。先生は思いつきで教えますからね、連係して教えない。だが花柳寿美も大したものですよ、十日間来て、それをきちんと纏めましたからね。その後、先生と私は歌舞伎座に招待されましたが、 立派にやっていましたよ。当時の薙刀の先生がその時いらしてたのですが、その方が後で言うには、「あの薙刀は素晴らしい。わたしらが学ぶ所が多々ある。一体どの先生が教えましたか」とね。その 後その先生は植芝道場にいらして、大先生と薙刀について談議されていましたよ。 とにかくこのようにね、神が乗り移るというか、何でも分かってしまうんですね。どうして薙刀が分かったんですかと後で聞いたら、「ちゃんと牛若丸が出てきて教えてくれたんじゃ」って言うんですからね(笑)。そんなふうにちょっと変わった先生でしたね、テレパシーがすごいんですよ。

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武闘伝

日本人格闘者の心得

武闘伝

加来耕三

95

フランス柔道有段者会を中心に、多くの門人を抱え、その実力に注目した軍部の要請で、外人部隊を訪問。正はここへ合気道を売り込み、一度は失敗したものの、帰りまぎわ、部屋の壁に拳の跡を殴りつけ、その威力に恐れをなした士官たちから、改めて格闘技の教官を乞われ、それを引きうけた。 (中略) ついでに記しておくと、正はボクサーやレスラー、その他の武道家と異種格闘技戦をおこなう場合、独自の工夫をほどこしていた。否、日本人格闘者の心得といい替えてもよい。 「極意を一言でいえば、柔道衣を着せることだ」 後年、正は得意気に語っているが、これは正の発明ではなく、明治の末葉に前田光世がすでにもち いた戦法であった。ただ、前田と正の違いは、正の場合、試合は非公開を原則としていた点であろう。これは勝負や面子にこだわってのことではなく、営利目的の挑戦を排除するためであった。(中略) 「プロは金にならぬことはしないものだ。これは交流のあった、力道山もよくいっていたことさ」 非公開の試合に限定して、そのうえで柔道衣を着せる。これが阿部流異種格闘技戦の必須条件であった。

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脅威の格闘伝説

合気道無敗・阿部正

脅威の格闘伝説

フルコンタクトKARATE・加来耕三

94

「敗戦国日本にも誇れるものはある。合気道だ。俺はこれを、ヨーロッパ中に広めてみせる...」 正は伝手を頼って貨物船に乗り込み、昭和7年(1952)6月30日に神戸港を後にした。 (中略) パリ在住の柔道家・川石酒之助の道場を根城に、合気道の普及に乗り出した。そのデモンストレーションは、フランス語の怪しい正にとって「とにかく、かかってこいー」といった物騒なもので、ことごとくを3分以内にうち倒したと伝えられている。 (中略) 挑戦してくるレスラーやボクサー、サンボの遣い手、変わったところではフェンシング、イタリアの投げナイフなど、すべてうち倒してパリっ子の度肝を抜く。彼は、未知の日本武道アイキを、こともあろうにフランス外人部隊に売り込んだ。正の合気道普及の努力は、やがて全ヨーロッパを覆う勢いを示す。この頃が、彼の全盛期であったようだ。パリに国費留学していた雪子と結婚し、正はフランス外人部隊の教官となり、その人脈を活用してアフリカ各地セネガール、チュニジア、アルジェリアなどに異種格闘技戦を展開。腕に覚えのあるといわれた軍人、武道家たちを小気味よいまでに葬り去った。 いつしか、正のヨーロッパ合気道勢力は、本家の日本を凌駕するまでになる。このまま、この男がパリに在りつづければ、あるいは合気道のみならず、世界の武道家は大きく変ったかも知れない。だが、正は病床にあった父を見舞うため、栄光の生活を捨てて帰国した。 ところが帰国した正は、まさに“浦島太郎”であった、 合気道の総本山は名称を「合気会」と改め、それまでの秘密主義を排して、健全な大衆化への道を歩みはじめていた。正にこれが、どのように映ったものか。やがて彼は、盛平の死と共に合気会を去り、市井の中に埋れていく。 (中略) 晩年の正は芳しくなかった。横浜で泥酔した挙句、機動隊を一個小隊叩き潰したこともある。「生きる時代を誤ったのか、自身に人並みはずれた非があったのだろうか。昭和59年11月23日、一代の武道家はひっそりとこの世を去った。享年59。以来、阿部 正について、関係者は固く口を閉ざし、 語ることはほとんどなくなったといってよい。

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合気道の解

植芝開祖と塩田先生

合気道の解

安藤毎夫

93

また、その当時の植芝開祖と塩田先生の様子をうかがい知ることができる貴重な話をご紹介しよう。植芝開祖の内弟子だった玉置信氏から直接聞いた話である。玉置氏は塩田先生の弟弟子にあたり、後に水戸署の署長となり退官後、養神館に数年来られた。何かと生活面で我々を指導していただいた。 玉置先生曰く、 (中略) その頃、塩田先生は拓大の学生さんで毎日植芝道場に通っておられました。カッカッカッと前のめりの下駄の音が聞こえますと裏木戸を開ける音がし、道場の裏口から「やあ」と言って角帽に袴姿の塩田先生が現れます。 威勢のよい話をしているうちに植芝先生がお見えになり稽古が始まりますと、第1番目に植芝先生のお相手をするのは塩田先生です。植芝先生が技をかけますと塩田先生の体がピューと遠くに飛び、畳に着くやいなや植芝先生目がけて矢のように襲いかかるというふうです。こうしたことが何遍か繰り返されているうちに、植芝先生の目がかっと見開き、額に青筋が浮立ちますともう演武も高潮に達した証拠で、植芝先生の技に凄味が増し、塩田先生の体が植芝先生を軸に道場狭しとばかりに四方八方に飛び散り、時に高く宙に舞うという有様です。それは実に壮絶なものでした。 ある時、塩田先生が例のごとく植芝先生のお相手をして体が宙に浮いた瞬間、ピリッと布を裂くような音がしました。それは着地の姿勢をとるために体をひねった際、足のさばきで袴を引き裂いたものです。空中で、しかも部厚い布地を鋭利な刃物で切ったように裂いたこの集中力。塩田先生の力の不思議を見たような気がしました。このような全身の力を統一した瞬発力があらゆる技に貫いていたのですから私共にはたまったものではありません。塩田先生はそんな私共を知らぬげにニコニコとやさしく、若武者のように颯爽としていました。

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氣の威力

ハワイへの普及

氣の威力

藤平光一

90

ハワイで弟子をつくるのは、わけはなかった。島でいちばん強いといわれるプロレスの選手や武道の有段者を集めてもらい、彼らを次々に飛びかからせて、軽く投げたり、押さえたりすると、人々は驚いてすぐ入門してきた。 (中略) そのあと、私はリングの上で大きなポルトガル人を相手に、「折れない腕」を披露した。力自慢のその男は顔をまっ赤にして、全力で私の腕を曲げようとするが、氣が出ているので、私の腕は曲がらない。ニコニコとしている私に腹を立てたのか、ポルトガル人は左足を私の右足にかけて、姿勢をくずして私の腕を曲げようとした。そこで、私が逆に手を前に突き出してやったら、彼は後ろへすっ飛んだ。 アナウンサーが「これが氣を出すというのだ」と説明すると、観衆は熱狂し、口笛を ピューピューと鳴らした。これ以来、ハワイに「氣を出す」という言葉が流行した。あとで聞いたら、「ミスター藤平の腕を曲げたら、五○○ドルの賞金を出す」と、賭けの対象にされていたそうだ。

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続植芝盛平と合気道

植芝先生のエピソード

続植芝盛平と合気道

合気ニュース

88

(スタンレー・プラニン)-塩田先生から植芝先生のエピソードをお聞きになりましたか。 (井上強一)-休憩時間や演武旅行のときに聞きました。大先生は演武旅行されるときに、汽車に乗るとよく 鉄扇を持たれていたそうです。そして「塩田さん、スキがあったらいつでもわしの頭をこれで殴れ」と言って、すぐコックリコックリと眠り始める。寝てすぐだったら気付かれると思って少し待ち、「そろそろいいかな」と思うと、大先生はすーっと頭をあげて「(駅は)まだかな?」(笑)。「いやいや、まだです」と言って鉄扇を隠すと「ああそうか」と言ってまた眠る。それから外を見て知らんぷりし てて大先生をチラッ、チラッと見る。それでずいぶん寝入っているから「いいかな」と思うと、ひゅっと目をあげて「喉が渇いたな」なんて(笑)。それを三回くらいやって、館長も眠いのを我慢して たので、阿呆らしくなって鉄扇を置いて寝ちゃったそうです。あとで植芝先生に殴ろうとするときはわかるのですかと聞いたら、「ただ何となくモヤモヤするから起きる」と言われたそうです。

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戦後合気道群雄伝

初の一般公開演武会

戦後合気道群雄伝

加来耕三

84

昭和三十年(一九五五)の九月の末から十月のはじめにかけて、東京・日本橋の高島屋の屋上において、合気道史に残る、初の一般公開演武会が予定通りに開催された。 (中略) 開催当時のことを、徳永に振り返ってもらった。 「開祖はね、何かというと、宇宙の真理を説かれるんですよ。稽古のときにも、『神々は......』 といい出してね。私はそのこと自体、特別気にはならなかったのだけど、まだまだ合気道の内容を知る日本人は少ない時代でしたからね。気合一つで相手が倒れる、と思い込んでいるような人も少なくなかった。ベールに包まれた合気道を公開するわけですから、開祖に『神々は…』とやられると、なにかしら奇怪な、紛い物のように受けとられかねません。 私はそれが何より心配で、大先生、それだけはやめて下さい、と演武会が始まるまで、顔を見るたびにお願いしました。 すると一瞬、開祖は凄まじい眼光を向けてこられる。ところがその恐ろしい眼光がスーッと消え、この世にこれ以上はない、と思われるほどの優しさが滲み出た表情を浮かべられるんですね。私は合気道の門外漢ですが、あの開祖のお顔には深い感銘を受けました」 高島屋での公開演武会は、動員した観衆の数も、それを取り上げたマスコミの数、宣伝という点でも大成功であったといってよい。

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植芝盛平と合気道

一番の思い出

植芝盛平と合気道

合気ニュース

73

塩田 一番思い出深いのは、昭和十六年頃、宮様方が合気道をご覧になりたいということになりまして、あの時の植芝道場の会長で、陛下の侍従武官か何かをやっていらした、海軍の竹下勇大将が道場に依頼にこられたのです。ところが大先生、「宮様の前では嘘をお見せするわけにはいかん」と言われたんですよ。その嘘というのはですね、「自分が一度やると相手は死んでし まう。それがまた起き上がって掛かってくるというのは嘘であって、そんな嘘をお見せするわけにはいかん」というわけですよ。そのことを竹下大将が宮様にお伝えしたら、「いいや、嘘でもいいから見せろ」とね (笑)。 その時、植芝先生は十日前くらいから黄疸で苦しんでいたんです。吐いてばかりいて、ほとんど食べていないんです。とにかく水を飲んだだけで吐いちゃうんですから。それで内弟子の湯川勉 (皇武館道場 時代の内弟子)さんと私と二人でお供して行く事になったんです。 (中略) その演武というのが湯川さんが前半二十分、後半私が剣を持ったりなんかで、二十分やるという段取りだったんです。そういうことで控室に行って稽古着を替えさせて、まあ死ぬ程ではないけれど、ダッと力が抜けて、ダランとなっちゃうんですよ。とにかくそんな状態で、囲りから見えない、相撲でいう花道というんですか、そこまで必死で抱えていったのです。  それがですね、宮様達をご覧になったら、先生突然シャキッとして、シャッ、シャッと歩きだしましてね、びっくりしましたよ(笑)。 精神力なんですね。背中をピシッと伸していっもと変わりないんです。とにかく先生の身体がそんなにひどい状態ですから、湯川さん、遠慮しちゃったんですね、フワフワーと出て打っていったんですね。そしたらピターツと倒されちゃって、何と腕が折れたんです。わずか十秒か十五秒の出来事でした。 それから急いで湯川さんを引っ込めて、後の四十分はほとんど私がやったのです。全くひどい目にあった、四十分投げられっぱなしでね。ようやく終わって、先生が戻ってきたのですが、宮様に見えない所にくると、またグターッとなって(笑)。もう精も根も尽きたんでしょうね。ところが湯川さんがもう駄目なもんだから、私一人で着物を着替えさせたりで、大変でした。私もバンバンやられた後だから参っちゃいましてね。後で熱が四十度も出て、三日間くらい寝こんでしまいました。

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格闘士列伝

いや、若いな

格闘士列伝

板垣恵介

72

とある防具空手の有名どころが、塩田剛三に他流試合を挑みに、養神館を訪ねてきたことがあったそうだ。とても礼儀正しい人で、自分の身分を明かして、「これこれ、こういう理由で私と、お手合わせ願いませんか」と。 対して塩田剛三は、耳が遠く、物事もあまり理解できないような顔つきで、 「あ~、ああ」ってやっていたという、大変な演技者だ。 「あ~、私とそうですか。ハイ、分かりました。でぇ、いったいい、いつぅ、やりぃますぅかぁ」 言葉だけでなく、動きまで全然ゆっくりなジイさんを演じ続ける。口をもごもごさせている塩田剛三に対して、この空手家はあまりにも、純粋なスポーツマンだ。慇懃な姿勢を崩さず、「今日、この場でお願いします......」 その言葉が終わるや否や、空手家は玄関に崩れ落ちて、担架で運ばれてしまった。 人差し指で、彼の咽喉元をえぐったらしい。失神してしまった防具空手の選手の顔を見下ろし、塩田剛三は、「いや、若いな」と呟いて、奥へ戻っていったというんだ。

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貴重なとき - 私の合気道

スティーブン・セガール

貴重なとき - 私の合気道

藤谷美也子

74

道場を取り壊してビルを建てることになりましたが、芦屋に住んでいたアメリカ人の古物商のJという人物から「セガールに合気道の道場を任せてみてほしい。道場はいつでも潰せるから、彼にやらせてみて駄目だった時に潰せばいい」と言われました。母はマンションに建てかえるつもりでしたが、娘の主人だと思ってすぐに承諾し、セガールの希望が通ったのです。 一九七六年、セガールは道場長になりました。彼はJから彼の知人を通して、合気道の精神の基といわれる大本教の故三代教主直日(なおひ)様を紹介され、『天心』という道場名を戴きました。 式典は神式の大本教で行われました。当日、三代教主直日様が御臨席され、その御息女(現在は四代教主)が式点に伶人として八雲琴を弾かれました。天心道場はこのように合気道の創始者、植芝盛平大先生が修業をされた精神と教えの基となる大本教の方々の助けに よって始まった道場です。従って『天心』という道場名は、大本教主のお許しなく、誰であろうと勝手に付ける行為自体が、合気の道に反することなのです。 道場の式典と祝賀会は「青い目の道場主」という見出しで、NHKのニュース番組など 数多くのテレビ局や新聞雑誌に取り上げられ、式典の後も度々マスコミをにぎわせました。

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続植芝盛平と合気道

殴ってやるから紹介しろ

続植芝盛平と合気道

合気ニュース

75

まだ塩田先生が拓大の学生だった頃、先生の友達でものすごく喧嘩の強い人がいた。その人が先生に、「植芝先生が強いと言うが、あんな爺さん、頭のひとつでも殴ってやるから紹介しろ」と言った。「じゃあやってみろ」ということで、ある日連れて行ったそうです。「このあいだ話した友達の何々です」と塩田先生が紹介すると、その友達が「初めまして」と言ってずーっと頭をさげたわけです。それで植芝先生が「ああよくいらっしゃいましたな」と言ったが頭をさげない。いつもはどんな人に対しても礼儀正しくしなさいと厳しく言っているのに、そのときはぜんぜん頭をさげない。 一方、その友達は頭をさげたままぜんぜんあげない。二人で何をやってるのかなと思ったら、そのうちにその友達がぱーっと頭をあげたら植芝翁が「ああよくいらっしゃいました」って頭をさげた (笑)。そしたら友達が「参りました」って頭をさげたのです。 その友達が帰るときに、「初めての人から挨拶されれば、いらっしゃいと頭をさげるだろう。その途端に殴れば当たらないまでも触れるかもしれないと思って待ってたんだがいつまでたっても頭をさげない。これは駄目だと思って頭をあげたら逆に頭をさげられて殴り損なった。あの爺さんは只者じゃあないよ」と言ったそうです。 それから館長先生は道場へ帰って植芝翁に「友達が学生とはいえ、なんでお辞儀をなさらなかったのですか」と聞いたわけです。そしたら翁は「君の友達は初めは邪で心から挨拶してなかった。でも途中で心を改めたようだから私は頭をさげた。そしたら勝手に参りましたって言ったんだ」と(笑)。

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最強格闘技図鑑真伝

日本武道史に名を残す

最強格闘技図鑑真伝

松宮康生

40

柔道の木村政彦は、拓殖大学で塩田剛三の2年後輩である。そして、その木村の後輩が、極真会館の大山倍達なのである。そう見てみるとそのころの 拓大は、後の日本武道史に名を残す偉大な武道家を輩出している名門大学といっても過言ではない。 当時木村は、拓大では他にならぶ者がいないほどの腕自慢 であった。塩田に言わせると当時は「拓大最強の男」と呼ばれていたという。実際、当時の木村はアルミニウムの1円玉を親指と人差し指で半分に折り曲げたり、当時鉛でできていた電車のつり革を腕力で曲げるというようなことをしていた。ちなみに木村の一円曲げからヒントを得て、大山のコイン曲げが生まれたという説があるが、真相はさだかではない。 そんな木村が「おれは、腕相撲では負けたことがない」と 塩田に言ったので、塩田は「じゃぁ、自分とやってみるか」ということになった。勝負は3回勝負であったが、最初の2回を 塩田が勝った。塩田は、3回目は木村に花を持たせる意味もあり、わざと負けてやったという。木村にもそのことはわかったようで、塩田の合気道の技術はすごいと後に自分自身の 講演でも話していたようである。 この話には後日談があり、その話を聞いた大山(倍達)が、塩田とぜひ会いたいといったため、3人であったことがあるという。3人の話題は、いかにして相手の力を応用し自分の力とできるかというような武道談義であった。 大山の話では、当時木村先輩も塩田先輩も武道家として尊敬すべき先輩であったのでなんでも学んで自分のものに取り入れていこうという考えであったと、当時のことを語ってくれた。確かにこの3人には、しいて言うならば武道による垣 根が低かったような気がする。大山は、その技術書(秘伝極真空手や続・秘伝極真空手など)を読んでもわかるように、自分の技術のなかに柔道や合気道の要素も自分なりにアレンジして取り入れているのがわかるのである。木村にしても同じようなことがいえる。また、塩田にしても合気道以外の武道を熱心に観察していたことはよく知られている。これら三 人に共通しているのは三人が三人とも研究熱心であり、ものの考え方に偏りがないということである。自分のやっている武道だけが最強というのではなく、自分のやっている武道にもっと役立つことはないかとよく研究しているのである)

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心身一如の身体づくり

道場破り

心身一如の身体づくり

原尻英樹

39

望月が植芝の技を見たときに、望月はすぐにそれがわかり、見ただけで、その技ができたという。玉心流柔術の心得があったとはいえ、ここにおいては、望月の並々ならぬ武道的センスをうかがうことができる。植芝も望月の才能を見抜き、入門後しばらくして、望月を門人頭 (事実上の師範代) に命じている。この後も、望月が体を壊して、静岡に引っ込み、そこで養正館を設立してから、植芝は望月を訪ね、そこで、合気柔術を教えたのであるが、直接の教授の年月は、二、三年間程度であって、何十年間も直接の指導を受けたのではなかった。 門人頭になってからの数か月は、植芝の道場で合気柔術を門下生に教えることになったが、時折、道場破りがきて、望月に手合せを願い出たという。これらの道場破りのなかには、ボクシングの選手もいて、今日流にいえば、「異種格闘技戦」が繰り広げられたといえる。柔道にしても合気柔術にしても、相手との何らかの接触があって、技をかけることができるが、ボクシングのように、相手がすぐに手を引いてしまっては、技をかけることが困難であった。そのときに、望月が使った方法が蹴りであった。ボクシングの場合、パンチによる上半身攻撃しかできないので、 水月(みぞおち)から下への足での攻撃は死角になったといえよう。

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最強格闘技図鑑真伝

三拍子に中心線を合わせる

最強格闘技図鑑真伝

松宮康生

35

かつて一度だけ塩田剛三が雑誌(月刊フルコンタクトKARATE 1981年11月号より )で木村政彦と対談した事がある。その中で塩田は、無意識で戦えるというのは合気道の極意であるという意味の事を語っている。ただし、極意に到達するためには何より基本をしっかりマスターする事が大切であるという。そしてその対談の中で呼吸について重要な事を語っている分があるので引用したい。 「技を徹底して体に浸み込ませれば、あとは相手に対しても自然に技が出る。木村が無意識で戦ったというけど、それは徹底し て技を浸み込ませた上でのことだ。ああして投げてやろう、こうして投げてやろうと思っているうちはダメだ。 ​ 合気道ではそれを呼吸と言う。力で無い力、相手に合わせて自然に出る力だ。リズムと言ってもいいね。呼吸は3種類あって「吸う」「吐く」「止める」がある。吸う息は相手を誘うが、吐く時は極限の力を出す時。止める時は瞬発的な動きをする 時なんだが、この3拍子に中心線を合わせる。 どんな時でも頭と足の先を結ぶ中心線を崩さなければ相手に投げられない。自分の方からこの技をかけてやろう、と気が先走ると技が後に来るから、そこにズレができる。息との関連性が無い。しかし、呼吸と動作が一致すれば、あとは相手との呼吸を合わせるだけで良い。相手の動きに応じて自分が反応できるわけだ。 ​ 知らぬ間に相手を倒し、投げることができる。これが自然体である。

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植芝塾

AikiNews NO.144/植芝盛平と大本教

- スタンレー・プラニン

29

側近となってから二、三ヵ月後、王仁三郎は盛平に、武田惣角から学んだ大東流合気柔術を大本の幹部に教えるように勧めた。こうして綾部の自宅に「植芝塾」と名づけた小さな道場が生まれた。道場には王仁三郎の書いた『植芝塾』の掛軸が掛けられていた。

海を渡った柔術と柔道

フランスでの柔道と合気道

海を渡った柔術と柔道

坂上康博

27

フランス国内の事情もいささか複雑だった。第二次世界大戦中まで二十年間にわたる川石の活動は、すでに数万の追従者を生み、講道館柔道と決別こそしなかったものの、独自の用語と指導法を定着させてきた。 (中略) 同年にヨーロッパ視察の講道館使節団に随行した望月稔(三船久蔵に学んだ柔道は七段、合気道も開祖の植芝盛平の直伝で八段)は、川石としばらく行動をともにしたが、柔道の指導法に違和感を覚え、川石道場では合気道だけを教えた。

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 海を渡った柔術と柔道

嘉納治五郎の意欲

海を渡った柔術と柔道

坂上康博

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(講道館柔道の創始者であり優れた教育者でもあった嘉納は)明治維新後に顧みられなくなった古武術を研究し、東京帝国大学在学中に天神真楊流からは当て身と固め技、また、起倒流からは投げ技を学んだ。講道館を立ち上げてからも、合気道や空手との交流をはばからず、古武術総合の意気込みを失わなかった。

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武田惣角と大東流合気柔術

人の腹を観る

武田惣角と大東流合気柔術

-武田時宗

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警察で指導中のある時、惣角はたいへん不思議なことをしたんです。大勢いる警察官の中から何人かを指さして「あんた退場、あんた退場」と退場させてしまったのです。そして残った者に教えたのです。終わったら署長さんが「武田先生、稽古をする前に三、四人退場させてしまいましたが、あれはどういう理由でしょうか」と尋ねたわけです。そうしたら惣角は、署長さんの顔を黙って見て「あんた、そんなこともわからないのか。あの人は酒飲みで困っていたでしょう。そんな者に教えられるか。それから、こっちの人は女に対してうるさいでしょう。だから教えないんだ。あともう一人は、あなたに反抗してどうしようもないでしょう。そんな者に俺は教えられない」と言うのです。初対面ですよ。それで署長さんはびっくりしてしまった。そういうことをやる人だから、みな惣角についていったのです。 私は刑事になってからそういうことがわかるようになりました。いわゆる人相を見るのですね。やはり人相なのです。 (中略) 武田惣角は人の腹をちゃんと観るのです。それが本当の合気なのです。

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武田惣角と大東流合気柔術

大東流と合気道

武田惣角と大東流合気柔術

スタンレー・プラニン

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大東流合気柔術と合気道の関係については、ここで特に述べる必要がある。武田惣角と植芝盛平の約20年間にわたる交流によって、この二つの武道の関係は不即不離のものとなり、お互いに繁栄をもたらしあう関係となった。 先にも述べたように、長年武道界で受け入れられてきた武田惣角観と大東流合気柔術観は合気道界から発生したものである。ここで考えなければならないのは、惣角と盛平の関係についてはかなり早い時期から確執があったことである。 (中略) 惣角の教授代理として盛平は、自分の弟子に1930年代の半ば頃まで武田惣角の名を記した大東流目録を授与していることである。大東流目録を授与されたのは、富木謙治、望月稔、白田林二郎、塩田剛三などの他に数百名の者たちだったと思われる。 1922年の英名録には盛平が教授代理を許された記録があるが、そこには盛平が今後の新しい弟子一人につき入門料として三円を惣角に支払うようにと記されている。盛平の広範な教授活動から、それは相当な額にのぼったと思われる。合気道、大東流の両サイドからの証言およびまわりの状況から、盛平に課せられたこの経済的な義務とその金額の大きさが両者の大きな確執の原因だったのではないかと思われる。

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中村天風と植芝盛平 氣の確立

宗教的な思い込み

中村天風と植芝盛平 氣の確立

藤平光一

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そのころ、先生は海軍大学に教えに行っていた。高松宮にも合氣道を教えていた。あるとき、高松宮が植芝先生を指して、屈強な軍人四人に、「あのじいさんを持ち上げ てみろ」と言った。そこで四人が一度にかかっても、全然持ち上がらなかった。先生は完全にリラックスを体得されていたのである。だが、植芝先生はそれを認識しておらず、他人には理解できない宗教的な言葉でしか語らなかったのである。先生は、「あのときは、天地の神々がそっくりワシの体のなかに入ってきて、磐石になって動か なくなった」 と言うのである。まわりの弟子たちはみんな、そう思いこんでいた。しかし、私は何百回とそれを聞かされても、そういう理屈に合わない話は最初から信用していなかった。自分の体のなかに神々が入ることなど一度もないと思っていた。 後に私が先生をハワイにお連れしたときに、ハワイの大きな力持ちが二人がかりで、私を持ち上げようとしたときがあった。ハワイの弟子たちはみんな私が持ち上がらないのを 知っているので別段、動揺はなかった。 しかし、植芝先生は控え席で、「藤平は上げられる、上げられる。やめさせろ、やめさせろ」と立ったり坐ったりして心配していた。 実は私は、前の晩、三時ごろまで弟子と酒を飲んでいた。そして、ソーッと帰ってきたのを植芝先生は氣づいていたのである。だから、「藤平のような大酒のみに神々が入るわけがない。入ったら神々が酔っ払ってしまう」と思い、私が軽々と持ち上げられるものと 決め付けていたのである。 しかし、リラックスして、あとで述べるような自然体になっていた私は、ビクともしな かった。ハワイの大男たちがウンウンうなりながら持ち上げるのに、地に根が張ったよう に持ち上がらなかった。「私は、ついでだからと、前で一所懸命踏ん張っている大男の頭をつかんでその体をグニャリとつぶして見せたのである。観客は皆一斉に拍手を送ってくれた。 神々などは、関係がないのである。六章で解説するように「重みは下にある」と言って 心身統一体になればよいのである。私の弟子たちはそれを知っているから、誰でもそれは できる。植芝先生のような特別な人でなく、みんなができてこそ本当に意義があるのだ。

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武闘伝

阿部正、ヨーロッパを震撼させる

武闘伝

加来耕三

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「柔術ヨーロッパチャンピオン戦、結構じゃないか」 阿部正はシュベールに鋭い視線を投げかけると、半ば、脅すように声をかけた。 「午後九時に道場にこい」 (中略) シュベールとすれば、下がったことで体勢を立て直したかったであろう。しかし、非情な正の手刀は、生きた長蛇のように向きを変え、次の瞬間にはシュベールの鳩尾にめり込んだ。こんどは前かがみに、身をよじるシュベール。正の姿は、すでに前方にはなかった。側面から後方へ入身転換し、シュベールの丸太のような首を、ねじ切るように、右腕で抱えて入身投げを放つ。しかし正の左手刀は、投げる瞬間、シュベールの骨盤を一撃していた。 シュベールには何が起きたのか、おそらく本人は判断もできぬまま、はね上げられるように後方へ倒れ、後頭部を強打し、脳震盪を起こした。 ​「脳天を打つのは、バックドロップだけじゃない、合気の技は使いようによって、どのようにも残酷になり得る」

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